2022年10月28日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』安康天皇類書4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「自茲以後淡海之佐々紀山君之祖名韓帒自()淡海之久多綿之蚊屋野多在猪鹿其立足者如萩()原指舉角者如枯()樹此時相率市邊之忍齒王幸行淡海到其野者各異作假宮而宿尓明旦()未日出之時忍齒王以平止()随乗御馬到立大長谷王假宮之傍而詔其大長谷王子之御伴人未寤坐早可白也夜既曙訖可幸獦庭乃進馬出行尓()侍其大長谷王之御所人等白宇多弖物云王子故應慎亦宜堅御身即衣中服甲取佩弓矢乗馬出行倐一忽之間自馬往雙抜矢射落其忍齒王乃亦切其身入於馬縮與土等埋於是市邊王之王子等意祁王表()祁王二柱聞此乱而逃去故到山代苅羽井食御粮之()面黥老人來奪其粮尓其二王言不惜粮然汝者誰人荅曰我者山代之猪甘也故逃渡玖須婆之河至針間國入其國人名志自牟之家隠身伇於馬甘牛甘也」、【これ以降、淡海の佐佐紀山君の祖の韓帒が「淡海の久多綿の蚊屋野は、とてもたくさん猪や鹿がいる。その立った足は荻原のようで、伸びる角は枯樹のようです。」と言った。この時、市邊の忍齒を引き連れて、淡海に行って、その野に着いたら、其々野営を作って休んだ。そして明くる朝、日出前に、忍齒は、平然と、馬に乗ったまま、大長谷の野営の傍らに立って、大長谷の伴人に「未だ目覚めていないのか。早く起こせ。夜は既に明けた。狩場に行こう。」と言って、馬を進めて出で行った。そこで大長谷に仕える人達が「嫌なことを言う王子だ。だから、慎重にしてください。そして、武装してください。」と言った。それで衣服の下に鎧をつけて、弓矢を取って身に着けて、馬に乗って出で行って、たちまち、馬にのって近づき並んで、矢を拔き忍齒を射落して、切り付け、馬桶(?馬衣)に入れて埋めた。それで市邊の王子達の意祁、袁祁の二柱はこの乱を聞いて逃げ去った。それで、山代の苅羽井について、食事をした時、顔に入れ墨をした老人が来て、食料を奪った。それで二王は「食料は惜しくない。しかしお前は誰だ。」と言うと「私は山代の猪飼だ。」と答えた。それで、玖須婆の河を逃げ渡って、針間國について、その國の人で志自牟の家に入って、身を隠して、馬飼牛飼に仕えた。】と訳した。

韓帒は『日本書紀』「近江國狹狹城山君祖倭帒宿禰妹名曰置目・・・倭帒宿禰因妹置目之功仍賜本姓狹狹城山君氏」と倭宿禰の姓ではなく韓だが、「椎根津彦曰汝迎引皇舟表續香山之巔因譽爲倭國造」、「椎根津彥命爲大倭國造即大和直祖」、「珍彦爲倭國造」、「倭直祖長尾市喚野見宿禰」、「大倭直祖長尾市宿禰」、「大倭國造吾子篭宿禰」と倭と大倭、国造と直と宿禰、椎根津彦と珍彦は等しく、この時、韓帒は()倭国造、()倭直、()倭宿禰であった。

仁徳天皇即位前紀に「倭直祖麻呂曰倭屯田者元謂山守地・・・弟吾子篭知也適是時吾子篭遣於韓國」と倭直祖で、倭を実質支配していたのは大山守、374年仁徳天皇六二年に「時遣倭直吾子篭令造船」と吾子篭が倭直になっていて、この直前に、「珍彦爲倭國造」、「詔椎根津彦曰汝迎引皇舟表續香山之巔因譽爲倭國造」と倭国造を賜姓され、吾子篭若しくは麻呂が珍彦と椎根津彦と考えられる。

狹狹城山君は「大彥命是阿倍臣膳臣阿閇臣狹狹城山君筑紫國造越國造伊賀臣凢七族之始祖也」と大彦が始祖で、『舊事本紀』「明石國造輕嶋豊明朝御世大倭直同祖八代足尼兒都弥自足尼定賜國造」と波多八代宿禰は大倭直同祖なので、比古布都押之信を生む伊迦賀色許賣は大彦の娘と解り、「屋主忍武雄心命之嫡男母曰山下影媛紀伊国造道彦之女」と『紀氏家牒』も同じ観点に有り、珍彦は、代々日臣後の道臣の同族で、この珍彦は佐佐紀山君に婿入りしたと考えられる。

狹狹城山君は豊木入日子に敗れて配下になっていたが、額田大中彦と協力して大山守を排除して倭国造(野洲国造)になった4世紀末の説話で、市邊忍齒の殺害時も狹狹城山君は子達を逃すことで保険をかけたようで、山君は山部の支配者と考えられ、「山部連先祖伊與來目部小楯」と小楯を配下にしている。


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