2022年10月3日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』履中天皇類書2

   『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「子伊耶本和氣命()坐伊波礼之若櫻宮治天下也此天皇娶葛城之曽都毗()古之子葦田宿祢之女名黒比賣命生御子市邊之忍齒王次御馬王次妹青海郎女亦名飯豊郎女?三柱本坐難波宮之時坐大嘗而爲豊明之時於大御酒宇良宜而大御寐也尓其弟黒()江中王欲取天下()以火著大殿於是倭漢直之祖阿知直盗出而乗御馬令幸於倭故到于多遅比野而寤詔此間者何處尓阿知直白黒()江中王火著大殿故率逃於倭尓天皇歌曰多遅比怒迩泥牟登斯理勢婆多都基()母基母知弖許麻志母能泥牟登斯理勢波()到於波迩賦坂望見難波宮其火猶炳尓天皇亦歌曰波迩布耶迦和賀多知美禮婆迦藝漏肥能毛由流伊弊牟良都麻賀伊弊能阿多理故到幸大坂山口之時遇一女人其女人白之持兵人等多塞茲山自當岐麻道廻應越幸尓天皇歌曰淤富佐迦迩阿布夜袁登賣袁美知斗閇婆多陀迩波能良受當藝麻知表()能流故上幸坐石上神宮也於是其伊呂弟水齒別命参赴令謁尓天皇令詔吾疑汝命若與墨江中王同心乎故不相言荅白僕者無穢邪心亦不同墨江中王亦令詔然者今還下而殺墨江中王而上來彼時吾必相言」、【子の伊邪本和氣は伊波禮の若櫻宮で天下を治め、この天皇は葛城曾都毘古の子の葦田宿禰の娘の黒比賣を妃に、生まれた子は市邊之忍齒。次に御馬。次に妹青海郎女、またの名は飯豐郎女の三柱。始め、難波の宮にいた時、大嘗で宴会をした時、大酒を楽しんで大いびきで熟睡した。そこに弟の墨江中王が、天皇に即位しようと、火を御殿につけた。そこで倭漢の直の祖の阿知直が逃がそうとして、馬に乗せて倭に連れ出した。それで、多遲比野に着いて目覚めて、「ここは何処だ。」と聞いた。それで阿知直が「墨江中王が、火を御殿につけたので、連れて倭に逃げようとしている。」と言った。そこで天皇は歌った()。波迩賦坂について、難波の宮を望み見ると、その火はまだ燃え盛っていた。そこで天皇は亦歌った()。それで、大坂山の上り口についた時、一人の女に会った。その女が言うのに「兵器を持った人達が、多人数で山を遮っている。當岐麻道から遠まわりで越えるといいですよ。」と言った。そこで天皇は歌った()。それで、上って、石上神宮に居た。そこに弟の水齒別が、遣って来て話した。そこで天皇が「私はお前がもしや墨江中王と同じ心ではと疑っているから話したくない。」と言うので「私は邪心は無い。墨江中王とは違う。」と答えた。また、「それなら今から帰り下って、墨江中王を殺して上って来い。そうしたら話そう。」と言った。】と訳した。

この説話では長男の伊耶本和氣を次男の墨江中王が取って代わろうとして、水齒別に墨江中王を殺害させたが、本来、皇位継承は決まっていて、この、伊耶本和氣即位前は征服途中で、主導権争いがあった事を示していると思われる。

すなわち、葛木氏内だけなら、主導権争いは無いが、分家には後ろ盾の義父が存在し、水齒別には「丸迩許碁登臣墨江中王にはおそらく『日本書紀』に記述されず、『古事記』に記述される波多毘能大郎子の兄弟で尾張難波朝の大草香が存在し、大別から難波朝の皇位を奪取して、若櫻朝の皇位を墨江中王にしようとし、それに対して、水齒別・葦田宿禰の娘が伊耶本和氣の妃で、水齒別が伊耶本和氣を皇位につけようとしたと考えられる。

なぜなら、『古事記』仁徳記に「定墨江之津」と尾張氏天皇が墨江の津の責任者に任用したのが大雀と思われるので、墨江中王が波多毘能若郎女に婿入りしたと考えられ、墨江中王は仲国王、「去來穗別天皇女曰中蒂姫皇女」と妹が伊耶本和氣の後継者の中帯姫で、「大草香皇子之妻中蒂姫」と尾張氏の子の皇位継承権がある大草香の妃になったと考えられ、墨江も草香も河内近辺にある。

襲津彦の孫の異端が男淺津間若子で、兄達が5・6年間の在位と短い中、男淺津間若子だけ長い在位で、しかも、天皇なのに臣下の宿禰の姓を持ち、実際の允恭天皇は異なる人物で、男淺津間若子は木菟宿禰・大鷦鷯の孫と考えるほうが理に適い、水齒別の妃の木事の兄弟の香兒媛の夫の五十琴宿祢、その娘の忍坂大中姫を男淺津間若子が妃にして、子の大泊瀬稚武が皇位継承したとすると理に適う。

允恭42年間は複数代の襲名した男淺津間若子宿祢がいたため、玉田宿禰が『日本書紀』「葛城襲津彦之孫玉田宿禰主瑞齒別天皇之殯」、「田狹臣婦名毛媛者葛城襲津彦子玉田宿禰之女也」と、襲津彦の子だったり孫だったりした。

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