『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「大長谷王子當時童男即聞此事以慷愾忿怒乃到其(仁)兄黒日王子(子王)之許曰人取天皇爲那何然其黒日王子(子王)不驚而有怠緩之心於是大長谷王詈其兄言一爲天皇一爲兄弟何無恃心聞殺其兄不驚而怠乎即握其衿控出抜刀打殺亦到其兄曰(白)日子王而告状如前後(緩)亦如黒日子王即握其衿以引率來到小治田掘穴而随立埋(者)至(埋)腰時兩目走抜而死亦興軍圍都夫良意富美之家尓興軍待戰射出之矢如葦來散於是大長谷王以矛爲杖臨其内詔我所相言之嬢子者若有此家乎尓都夫良意(富美)?聞此詔命自参出解所佩兵而八度拝白者先日所問賜之女子訶良比賣者侍立(亦)副五處之(屯)宅以獻(所謂五村辰(屯)宅者今葛城之五村苑人也)然其正身所以不参向者自往古至今時聞臣連隠於王宮未聞王子隠於臣之家是以思賤奴意富美者雖竭力戰更無可勝然恃巳入坐于随(陋)家之王子者死(而)不棄如此白而亦取其兵還入以戰尓力窮矢盡白其王子僕者手悉傷矢亦盡今不得戰如何其王子荅詔然者更無可爲今殺吾故以刀刺殺其王子乃切巳頸以死(也)」、【大長谷王子は、その時少年だった。それでこの事を聞いて、憤慨して、その兄の黒日子の許に行って「皇位を奪った。どうしましょう。」と言った。それなのに黒日子は、驚かず、行動しようとしなかった。それで大長谷は、兄を「天皇であり、兄弟の兄が殺されたことを聞いて、頼り無いことに、何とかしようとせず、兄が殺されたことを聞いて、驚きもせず怠慢だ。」とののしって、その衿を握って引きずり出して、刀を拔いて打ち殺した。亦、その兄の白日子の所に行って、状況を同じように告げると、悠長なこともまた、黒日子と同じだった。それでその衿を掴んで引き出して、小治田に連れてきて、穴を掘って立ったまゝ埋めたら、腰までくると、両目を剥いて死んだ。亦、兵を起こして都夫良意美の家を圍んだ。兵を待ち伏せて戦い、射た矢が葦原のように飛んできて散らばった。そこで大長谷は、矛を杖にして、囲みの中を臨み見て、「私が言い交した乙女はもしかしたらこの家に居るのか。」と言った。そこで都夫良意美がこれを聞いて、自ら出てきて、着けた兵器を解いて、八度手を合わせて「先日聞かれた娘の訶良比賣を仕えさせましょう。亦、五ヶ所の屯宅も一緒に献上しましょう。(所謂五村の屯宅は、今の葛城の五村の苑人だ。)しかし私自身が、参上しない理由は、昔から今に至るまで、家臣が主の宮に隱れることはあるが、王子が家臣の家に隱れたとは聞いたことが無い。それで、賎しい私意富美では、力を尽くして戦っても、勝てない。しかし、私を頼みに我が家にいる王子は、死んでも見捨てられない。」と言った。この様に言って、亦、武器をとって帰って戦った。それで力尽き、矢も尽きたら、王子に「私は体中に手傷を負った。矢も尽きた。もう戦えない。どうする。」と言った。王子が「それならどうしようもない。もう私を殺しなさい。」と答えた。それで、刀で王子を刺し殺して、それから自分の頚を切って死んだ。】と訳した。
大日下を殺すきっかけとなった幡梭皇女と大長谷の婚姻の時、武内宿祢の子の坂本臣の祖の木角宿祢の子孫の根使主が寶の押木珠縵、すなわち、宝石で出来た髪飾り、女王の璽を奪い、根使主は「平群県紀里」が根国でその国(縣)神・王の意味で、平群氏の本家が次の皇后の璽を奪ったことを意味する。
『紀氏家牒』には「紀武内宿祢者・・・屋主忍武雄心命之嫡男母曰山下影媛紀伊国造道彦之女」と「木國造祖」と異なり共に神武東征で協力した道彦の娘の子で、「事六代君凡春秋二百八十余歳家大倭国葛城県」と春秋と1年で2歳の二百八十余歳と6代140年余り葛城に一家を築いたとし、その後、蘇我氏を記述するので武烈朝までの期間の可能性が高い。
木国造は『舊事本紀』「天道根命爲紀伊國造」と根は神なので、天の道の神と読め、道臣・根臣と理解でき、木国造宇豆彦は大伴氏の祖の日臣からの分家で、壹與が日国造になって、前の日臣が道臣になった時以降、紀伊国造の祖と呼ばれる木国造の子の宇豆彦と呼ばれ、日向襲津彦の東征に協力した。
そして、『紀氏家牒』「宇豆彦道彦男也女宇乃媛一生二角宿祢」と紀国造の祖の宇豆彦(道彦)の娘の子が木国の角宿祢で「家大倭国平群県紀里」と武内宿祢が葛城に遷った時に木国から平群に遷り、平郡氏は木兎宿祢から大雀、そして、弟の根鳥と思われる紀角宿祢に別れたと思われる。
「神功皇后政六十年然後家大倭国平群県平群里」、これは、神功皇后摂政五六年が『日本書紀』「百濟王子貴須立爲王」と376年なので、377年に根国の支配者が難波根子に変わり、神功皇后政六十年・380年に平群・根国が大田田根子から根使主が支配し、紀角宿祢・大田君と呼ばれた
紀氏は『紀氏家牒』「家大倭国平群県紀里初山下影媛居地同名紀里故名曰紀角宿祢」と遷る毎に木国の紀、平群の紀と地名も遷り、「紀辛梶宿祢弟建日宿祢河内国和泉県坂本里清寧天皇改氏賜坂本臣」と平群以降も河内の和泉の紀、そして、紀宿禰の根使主が賜氏で坂本臣と変化したことを示している。
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