『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(弟)男浅津間若子宿祢命(王)坐遠飛鳥宮治天下也(此)天皇娶意富本杼王之妹忍坂之大中津比賣命生御子木梨之輕王次長田大郎女次境之黒日子王次穴穂命次輕大郎女亦名衣通郎女(御名所以負衣通王者其身之光自衣通出也)次八瓜之白日子王次大長谷命次橘大郎女次酒見郎女(九柱)凡(凢)天皇之御子等九柱男王五女王四此九王之中穴穂命者治天下也次大長谷命治天下也天皇初爲將所知天津日継之時天皇辞而詔之我者有一長病不得所知日継然大后始而諸卿等因堅奏而乃治天下此時新良國王貢進御調八十一艘尓御調之大使名云金波鎮漢紀武此人深知藥方故治差帝皇之御病於是天皇愁天下氏名名人等之氏姓忤過而於味白檮之言八十禍津日前居玖訶瓮(盆)而定賜天下之八十友緒氏姓也又爲木梨之輕太子御名代定輕部爲大后御名代定刑部爲大后之弟田井中比賣御名代定河部也天皇御年漆拾捌歳甲午年正月十五日崩御陵在河内之恵賀長枝也天皇崩之後定木梨之輕太子所知日継未即位之間姧其伊呂妹輕大郎女而歌曰阿志比紀能夜麻陀袁豆久理夜麻陀加美斯多備袁和志勢志多杼比尓和賀登布伊毛袁斯多那岐尓和賀那久都摩(麻)袁許存許曽婆(波)夜須久波陀布礼此者志良宜歌也又歌曰佐佐婆(波)尓宇都夜阿良礼能多志陀志尓韋泥弖牟能知波比登波加由登母宇流波斯登佐泥斯佐泥三(弖)婆加理許母能美陀礼婆美陀礼佐泥斯佐泥弖波(婆)此者夷振之上歌也是以百官及天下人等背輕太子而歸穴穂御子尓」、【弟の男淺津間若子宿禰、遠飛鳥宮で天下を治めた。此の天皇は、意富本杼王の妹、忍坂大中津比賣を娶って、<・・・略・・・>天皇は初め天位を継ぐとき、「私は持病を持っている。皇位を継ぐことはできない。」と天皇を辞退した。それでも大后を始め、諸臣が、みなで言うので、天下を治めた。この時、新羅の国主が、税として八十一艘を貢進した。納税の大使の金波鎭漢紀武は薬草に詳しかった。それで、天皇は病を治した。天皇は、臣下の氏姓が間違い乱れているのを憂いて、味白梼がよく言う穢れの神の前に、探湯の用意をして天下の同族の氏姓を定めた。又、木梨之輕の御名代として、輕部を定め、大后の御名代として、刑部を定め、大后の妹の田井中比賣の御名代として、河部を定めた。天皇は漆拾捌歳で甲午の年の正月十五日に崩じた。陵は河内の惠賀の長枝に在る。天皇が崩じた後、木梨之輕太子が後継者と決まっているのを、未だ即位しないうちに、妹の輕大郎女と間違いを起こして歌った(略)。これはしらげの歌だ。又、歌った(略)。これはひなぶりの上歌だ。それで官吏や天下の人達が、輕太子から離反して、穴穗についた。】と訳した。
男浅津間若子の病気は他書が修行によるのと異なり、薬草で治癒したと述べ、他書が百濟の仏教の影響の修行による治療法に対して、『古事記』は新羅の薬学による治癒を述べ、、去來穗別の死亡が毒殺の疑いがあることを述べたが、金波鎭漢紀武の薬草の知識を使ったことを想起させる。
『古事記』は仁賢天皇が書いた史書で、平群氏は父の敵、『日本書紀』の雄略以前は平群氏が書いた史書で、平群氏の男浅津間若子が『日本書紀』は毒草の知識があった事を隠し、『古事記』は隠さなかったことを示すのではないだろうか。
『日本書紀』に記述されない遠飛鳥宮天皇は、『古事記』注記で「丁卯年八月十五日崩也」と427年死亡の大別と、同じく注記の「壬申年正月三日」と432年死亡の麦入の説話で、麦入は磐余若櫻宮の皇子だった人物なので、宮への出入りがあったと思われ、新羅使節との接触も毒殺も容易に出来たと考えられる。
皇太子木梨之輕の「輕大郎女亦名衣通郎」の説話は、『日本書紀』では「衣通郎姫戀天皇」と天皇と呼び、「妾弟名弟姫焉・・・時人號曰衣通郎姫也」と木梨之輕が天皇に即位後に、「姧其伊呂妹輕大郎女」ではなく、義妹を妃にしたので、皇后に怒りをかった説話になっていて、「姧其伊呂妹」は穴穂が義妹を妃にしたと記述して、これは穴穂の事のようだが、実際は姪とおもわれる。
皇后は藤原宮で出産していて、藤原君は物部竹古で、その娘が五十琴彦の妃で、その子が山無媛、五十琴彦の子の目古、目古の娘の全能媛は麦入の妃、麦入の子が田部連の祖の小前宿祢で、隼別の祖父が櫻井田部の祖の島垂根、櫻井田部は田部から派生した姓、すなわち、隼別は木梨之輕で皇后の妹の雌鳥を妃にした、麦入の次の天皇だった可能性が高い。
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