2022年10月21日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』安康天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「十二世孫物部木蓮子大連公布都久留太連之子此連公石上廣髙宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮御太君祖女異媛爲妻生二兒弟物部小事連公志(?)連柴垣連田井連等祖弟物部多波連公依網連等祖孫物部荒山連公日()大連之子此連公檜前廬入宮御宇天皇御世為太連奉齋神宮弟物部麻作連公借馬連(?)原連等祖」、訳は省略した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱穴穗皇子尊者雄朝嬬稚子宿祢天皇第二子也母曰皇后忍坂大中姬命稚渟毛二岐皇子命女也四十二年春正月天皇崩冬十月葬礼畢之時太子行暴虚淫于婦女國人謗之群臣不從悉(?隸 上++)穴穗皇子爰太子欲襲穴穗皇子而密設兵穴穗皇子復興兵將戰故穴穗括箭輕括箭始起于此時也時太子知群臣不從百姓乖違乃出之匿物部大前宿祢之家穴穗皇子聞則圍之大前宿祢出門而迎穴穗皇子歌日云々在別乃啓皇子曰願勿害太子臣將議由是太子自死于大前宿祢之家一云流伊豫國在薄元年十二月己巳朔壬午穴穗皇子即天皇位尊皇后曰皇太后追皇太后贈太皇太后以物部木蓮子連公為大連都遷石上謂穴穗宮二年春正月癸巳朔己酉中蒂姬命立為皇后甚寵初中蒂姬今生眉輪王於大草香皇子仍依母以得免罪常養宮具見別傳二年秋八月甲申朔壬辰天皇為眉輪王見殺天皇年五十六歳眉輪王七歳三年後乃葬於菅原伏見陵天皇無胤」、【諱は穴穂。雄朝嬬稚子宿祢天皇の第二子で母は、皇后・忍坂大中姫といい、稚渟毛二岐皇子の娘だ。治世四十二年の春一月、天皇が崩じた。冬十月に葬礼が終わったときに、太子の木梨軽皇子は、乱暴で婦女に淫らな行いをしていたので、人はこのことをそしった。群臣も信頼せず、穴穂についた。太子は、穴穂を襲おうとして、ひそかに兵士を集めた。穴穂もまた兵をおこして、戦おうとした。穴穂矢・軽矢はこのとき始めて作られた。太子は、群臣が自分に従わず、人もまた離れていくことを知った。そのため宮を出て、物部大前宿祢の家に隠れた。穴穂はそれを聞いて、大前宿祢の家を囲んだ。大前宿祢は、門を出てきて、穴穂を迎えた。穴穂が歌を詠んで「云々が、別の書に記されている。そうして大前宿祢が皇子に「どうか太子を殺さないでほしい。私が図りましょう」と言って、太子は、大前宿祢の家で自殺した。一説には、伊予国に流したともいう。治世元年十二月己巳朔壬午、穴穂は即位した。先の皇后を尊んで皇太后と言い、皇太后に追号して太皇太后を贈った。物部木蓮子連を大連とした。都を石上に遷した。これを穴穂宮という。二年春一月癸巳朔己酉、中蒂姫を皇后とし、寵愛した。はじめ中蒂姫は、眉輪王を大草香との間に生んでいた。そこで眉輪は、母の縁で、父の罪を免れ、いつも宮中で育てられた。詳しくは別の書にみえる。眉輪は七歳だった。二年秋八月甲申朔壬辰、天皇は眉輪のために殺された。天皇は五十六歳。眉輪は七歳。三年後、菅原伏見陵に葬った。天皇に子はいない。】と訳した。

元年十二月己巳朔は453年で『日本書紀』は元年春二月戊辰朔で454年、二年春正月癸巳朔は正しく455年、二年秋八月甲申朔は456年で、これは、453年に即位して翌年死んだ天皇がいて、454年に石上穴穗宮に即位した天皇もいて、457年に崩じた5年在位の天皇がいたことを示し、穴穂は平群家を455年に引継ぎ、翌年殺害されたことを示していると考えられる。

『日本書紀』は453年、『古事記』は「男浅津間若子宿祢・・・甲午年正月十五日崩」と454年と記述され、二人の天皇の死亡を記述し、『舊事本紀』は453年死亡、同年即位としている。

眉輪の後ろ盾が圓なのだから、眉輪の母中帯姫は圓の兄弟の姫で、共に皇位継承権を持っていることを示し、圓の父は玉田宿禰で、玉田宿禰は允恭天皇五年に前天皇の殯の中、酒宴していたと殺害されたが、『三國志』「他人就歌舞飲酒」と酒を飲んで歌って舞い、允恭天皇四二年には新羅の使者が「自難波至于京或哭泣或儛歌遂參會於殯宮也」と行進し、全く非礼ではなく、玉田宿禰は殺されたのは去來穗別の正統な後継者で、この允恭天皇五年が玉田宿禰から圓が大臣を継承し、457年に圓が死亡した。

布都久留の子の「物部木蓮子連公為大連」は、恐らく、葛城氏圓大臣に対する大連で、葛城襲津彦の本家が石上にあり、そこの物部氏が木蓮子を襲名したと考えられ、穴穗宮天皇の大連は麦入宿祢の子の大前宿祢で、遠飛鳥宮大前小前大臣は麦入を襲名した木梨輕、天皇木梨輕の皇太子が大前小前大臣で、穴穗宮大前大連(氷連)・近飛鳥八釣宮小前大連(田部連)と大前小前大臣の家系が2家系に別れたことを示している。 

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