『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「允恭天皇諱雄朝嬬稚子宿祢尊者瑞齒別天皇同母弟也天皇自岐嶷至於総角仁惠儉下及壯篤病容止不便也五年春正月瑞齒別天皇崩時群卿議曰方今大鷦鷯天皇之子雄朝嬬稚子宿祢皇子與大草香皇子矣然雄朝嬬稚子宿祢皇子長之仁孝即選吉日跪上天皇之璽矣雄朝嬬稚子宿祢皇子謝曰我之不大雖久篤疾不能步行且我既欲除病獨非奏言而密破身治病猶勿差由是先皇責之曰汝雖患病縱破身不孝孰甚於茲矣其長生之遂不得継業亦我兄二天皇愚我而輕之群卿共所知矣夫天下者大器也帝位者鴻業也且民之父母斯則賢聖之職也豈下愚之任乎更選賢王冝立矣寡人弗敢當矣群臣再拜言夫帝位不可久曠天命不可以謙距大王留時逆衆不正号位臣等恐百姓望絕也願大王雖勞猶即天皇位雄朝嬬稚子宿祢皇子曰奉宗廟社稷重事也寡人篤疾不足以穪猶辭而不聽群臣皆固請曰伏計之大王奉皇祖宗廟最冝稱天下万民皆以為冝聽之」、【允恭天皇の諱は雄朝嬬稚子宿祢で瑞齒別天皇の同母弟である。天皇は生まれつき、しっかりしていて思いやりがあり、つつましかったが壮年になって重い病で、立ち居振る舞いが哀れだった。五年春一月、瑞齒別天皇が崩じた。官僚が「今、大鷦鷯天皇の子は、雄朝嬬稚子宿祢皇子と大草香皇子がいるが、雄朝嬬稚子宿祢皇子は年上で情け深い」と相談し、ひざまずいて天皇の璽をささげた。雄朝嬬稚子宿祢は「私は長い間重い病に罹ったが、歩けないほどではない。治そうとして、相談もせずに荒療治しても差がなかった。これを先皇がお前は病気なのに荒療治をするのは親不孝甚だしい。それで長生きしても帝業を継げず、兄の二人の天皇が愚かと軽んじたことはみんなっている。天下を取るのは大変なこと、帝位は大事業だ。かつ、人民の親となるのは聖者の仕事だ。どうして愚か者に任せられるか。賢い王を選べ。私は不適だ。」というと、群臣は「帝位は無駄に空けておけない。天命は拒めない。遠慮して、間違ってほっておくと、人民が絶望することを恐れます。お願いだから、面倒でも即位してほしい。」と何度も頭を下げた。雄朝嬬稚子宿祢は、「国家を任されるのは重大なことだ。私は重い病で、耐えられない」と聞かなかった。そこで群臣は「大王が帝位を継ぐのが最適と天下万民皆そう思っていると、頭を抱えて考えました。お願いします」と固く願った。】と訳した。
皇位継承がスムーズに行かない時は背景に存在する、皇后や妃の氏族の力が拮抗しているときに起こるのであって、後ろ盾が弱ければ、皇位に就くことが出来ず、皇位に就いても、後継者は、多くが皇后の兄弟の子が皇位に就き、クーデタを起こしても直ぐに殺害されてしまい、天皇の地位を譲りあった大雀、実際は額田大中彦と菟道稚郎子は品陀真若を背景にした尾綱根と印葉を背景にした五十琴宿祢の戦いで、互角だったから3年間を費やし、その結果が、2王朝並立で、尾綱根と印葉は大臣を名乗ったのであり、弟の大別は「賜矢田部連公姓」、尾綱根は「賜尾治連姓」で五十琴宿祢は磐余若櫻朝廷を継続し、尾張・矢田部を賜姓し、難波朝は名目上、五十琴天皇に宿祢の姓を与えた。
410年から412年の空白はこの仁徳帝の皇位継承説話で、本来は 磐坂市邊押羽が太子であるが、まだ、20歳に達していなくて、木事の子の難波根子大別の妃の幡梭皇女の兄弟の大草香と難波根子大別と従弟で忍坂大中姫の兄弟の麦入が皇位を争い、麦入が忍坂大中姫の夫の雄朝嬬稚子の力を借りたと思われる。
それは、『古事記』の432年「壬申年正月三日崩」と437年「丁丑年七月崩」、454年「甲午年正月十五日崩」の3人の天皇が、『日本書紀』の453年「四十二年春正月乙亥朔戊子天皇崩」と4人が崩じているように、反正天皇妃の津野媛の兄弟の大別、大別と共に五十琴彦の孫の大麦、子の木梨輕(実際は恐らく隼別で「衣通郎姫奏言・・・皇后則妾之姉也」と矢田皇后の妹衣通・雌鳥を妃にして淡海朝廷の後継者を兼ねる)、そして、雄朝嬬稚子と忍坂大中姫の娘を妃にした大草香が皇位を継承したと思われるからだ。
そのため、首都が『古事記』では遠飛鳥、『日本書紀』では大草香の首都と思われる河内の茅渟や藤原と首都が一致せず、難波・河内朝が磐余朝を兼務し、葛城氏の磐余若櫻朝も継承を主張したと思われる。
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