2022年10月7日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』反正天皇類書

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「反正天皇諱瑞齒別尊者去來穗別天皇同母弟也二年立為儲君時年天皇初生于淡路宮生而齒如一骨容姿美麗於是有井日瑞井則汲之洗太子時多遅花落于井中因為太子名也多遅花者今虎杖花故稱謂多遅比六年春三月去來穗別天皇崩元年歳次丙子夏四月丁丑朔戊寅儲君即天皇位秋八月甲辰朔巳酉大宅臣祖木事之女津野媛立為皇夫人生香火姫皇子次圓皇女復納夫人弟々媛生財皇女次高部皇子冬十月都於河内丹比謂柴垣宮五年春正月甲申朔丙午天皇崩年六十葬毛須野陵天皇所生皇子二男二女兄高部皇子次圓皇女次財皇女次香火姫皇女」、【反正天皇の諱は瑞歯別で去來穗別天皇の同母弟だ。二年に、皇太子になったとき、年は五十一歳だった。天皇は淡路宮で生まれ、生まれながらに歯が一つの骨の様で、うるわしい容姿だった。瑞井という井戸があって、その水を汲んで太子を洗い、そのとき多遅の花が井戸の中に落ちたので太子の名にして、多遅の花とは今のいたどりの花のことで、多遅比と言った。治世六年春三月、去來穗別天皇が崩御し、治世元年の夏四月丁丑朔戊寅に、皇太子は即位した。秋八月甲辰朔巳酉、<・・・略・・・>冬十月、河内の丹比に都を造り、柴垣宮という。五年の春一月甲申朔丙午に、天皇は崩じた。年は六十歳で毛須野陵に葬った。<以下略>】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(弟)水齒別命坐多治比之柴垣宮治天下也此天皇御身之長九尺二寸半御齒長一寸廣二分上下等齋既如貫珠天皇取丸迩之許碁登臣之女都怒郎女生御子甲斐郎女次都夫良郎女(二柱)又娶同臣之女弟比賣生御子財王次多訶弁郎女并四王也天皇之御年陸拾歳(丁丑年七月崩御陵在毛受野也)」、【弟の水齒別、多治比の柴垣宮で天下を治めた。この天皇は身長九尺二寸半、齒の長さ一寸、廣さ二分、上下等しくととのい、珠を貫けるようだった。天皇は丸迩の許碁登臣の娘の都怒郎女を娶って、生んだ子は、甲斐郎女。次に都夫良郎女二柱。又、同じ臣の娘の弟比賣を娶って、生んだ子は財。次に多訶辨郎女。併せて四柱だ。天皇は陸拾歳で丁丑の年の七月に崩じた。陵は毛受野に在る。】と訳した。

皇位継承の中心人物の黒媛皇妃が薨じ、太子磐坂市邊押羽が20歳になる前に天皇を暗殺し、難波朝廷の木事・大別を背景にした瑞歯別が皇位を奪ったが、『日本書紀』「財皇女與高部皇子」と高部・財が記紀で男女が違い、弟比賣は瑞歯別の妃では無い可能性が高く、瑞歯別の皇太子は難波天皇大別が皇太子になったと思われ、実際は伊耶本和氣の叔父の瑞歯別は高齢なため在位期間5年で平穏な在位期間だったと考えられる。

但し、『古事記』で記述されない幡梭皇女・波多毘能大郎子もしくは波多毘能若郎女は応神の娘と仁徳の娘が存在し、仁徳の子の伊耶本和氣の妃ではなく、応神・木事の子の仁徳大別の妃が幡梭皇女だから『古事記』に幡梭皇女が記述されないと考えている。

反正天皇の皇位継承権をもつ王は大別、大別の妃の幡梭皇女の娘の中磯皇女、幡梭皇女の兄弟大草香皇子、恐らく反正天皇の娘の香火姫の夫の蟻臣、磐坂市邊押羽、反正天皇と木事の娘との継承者、恐らく玉田宿禰の妃の圓皇女で、その子が圓大臣と思われ、40年間内紛を起こしたと考えられる。

その為、若櫻朝廷は葦田宿祢・蟻臣親子と蟻臣の娘婿磐坂市邊押羽と大別の甥の大麦その子若しくは娘婿の木梨輕・大麦の子の大前大臣と大草香と玉田宿禰・圓大臣親子と圓の娘婿の大泊瀬が皇位継承争いをしたと考えられる。

『舊事本紀』は「元年歳次丙子夏四月丁丑朔戊寅」436年と記述し、反正元年406年は『日本書紀』が「元年春正月丁丑朔戊寅・・・是年也太歳丙午」で天文学的に正しく、『舊事本紀』は全くの間違いの干支で、『日本書紀』と異なる資料を上手く当て嵌めることが出来ない、すなわち、対応表がないと全く頓珍漢な配置となることを示し、『日本書紀』も九州の朔で、独自資料であっても、対応表があるためしっかりと当て嵌め、もし、計算で史書を書いているのなら、この様な現象は発生せず、全て一定に間違うはずで、同名の人物も襲名した人物なので、何代目の人物か解らないのだろう。

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