2022年10月5日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』履中天皇類書3

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故即還下難波欺所近習墨江中王之隼人名曽婆加里云若汝從吾言者吾爲天皇汝作大臣治天下那何曽婆訶理荅曰()随命尓多禄給其隼人曰然者殺汝王也於是曽婆訶理竊伺己王入厠以矛刺而殺也故率曽婆訶理上幸於倭之時到大坂山口以爲曽婆訶理爲吾雖有大功既殺巳()君是不義然不實其功可謂無信既行其信還惶其情故雖報其功滅其正身是以語()曽婆訶理今日留此間而先給大臣位明日上幸留其山口即造仮宮忽爲豊樂乃()於其隼人賜大臣位百官令拝隼人歓喜以爲遂志尓詔其隼人今日與大臣飲同盞酒共飲之時隠面大鋺盛其進酒於是王子先飲隼人後飲故其隼人飲時大鋺覆面尓取出置席下之劔斬其隼人之頭()乃明日上幸故号其地謂近飛鳥也上到于倭詔之今日留此間爲祓禊而明日参出將拝神宮故号其地謂遠飛鳥也故参出石上神宮令奏天皇政既平訖参上侍之尓召入而相語也天皇於是以阿知直始任蔵官亦給粮地亦此御世拾()若櫻部臣等賜若櫻部名又比賣陀君等賜姓謂比賣陀之名也亦定伊波禮部也天皇之御年陸拾肆歳(壬申年正月三日崩御陵在毛受也)」、【それで、難波に下って、墨江中王の近習の隼人の曾婆加里を騙して、「もしお前が私の言うとうりにしたら、私は天皇となって、お前を大臣にして、天下を治めるというのはどうだ。」と言った。曾婆訶理は「命令のとうりに。」と答えた。そこで多くの褒美を隼人に与えて「それならお前が王を殺せ。」と言った。そこで曾婆訶理は密かに主君が厠に入るのをうかがって、矛で刺し殺した。それで、曾婆訶理を連れて倭に上る時、大坂山の入り口についたと思うと、曾婆訶理は私の爲に大功が有ったが、主君を殺したのは道義に外れる。しかしその功績に報いないのは、信義に反する。信義を持って行えば、その気持ちは賢い事だ。それで、功に報いるが、本人は殺さねばと思った。それで曾婆訶理に「今日はここに留まって、先ず大臣の位を与え、明日上ろう。」と言って、その山の入り口に留まって、宿営を造って、すぐに宴会を初めて、隼人に大臣の位を与え、部下に拝礼させると、隼人は喜んで、やったと思った。そこで隼人に「今日は大臣と同じ盞で酒を飲もう。」と言って、飲むときに、顔が隠れるほどの大鋺に、酒を盛り進めた。そこで王子が先に飲み、隼人が後で飲んだ。それで、隼人が飲むとき、大鋺で顔を覆った。それで席の下に置いた劒を取り出して、隼人の頚を斬って、翌日、上った。それで、そこを近飛鳥という。上って倭について、「今日はここに留まってお祓いをして、明日、参上して神宮を拝礼しよう。」と言った。それで、そこを遠飛鳥と言う。それで、石上神宮に参上して、天皇に「政事はもう平らげて参上しました。」と言った。それで招き入れて話し合った。天皇は阿知直を始めて相談役に任命し、領地を与えた。此の世に、若櫻部臣達に若櫻部の名を与え、又比賣陀君達に姓を与えて比賣陀君と言った。亦、伊波禮部を定めた。天皇は年齢陸拾肆歳で壬申の年の正月三日に崩じた。陵は毛受に在る。】と訳した。

この説話でわかるとおり、400年より前、375年近肖古王が文字を取り入れ、384年『三国史記』 枕流王 「九月胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮内禮敬焉佛法始於此」と375年枕流王から仏法が始まり、それ以降に阿知直が伊耶本和氣の家庭教師になったことを示し、『日本書紀』応神天皇十五年の「阿直岐亦能讀經典即太子菟道稚郎子師焉」は菟道稚郎子ではなかった、若しくは、菟道稚郎子がこの頃の人物であった事を証明している。

386年に百濟が『三国史記』辰斯王二年に「百濟王世子餘暉爲使持節都督鎮東將軍」に任命され、阿知は自分も晋の将軍に任命されたくて、応神天皇二八年「高麗王遣使朝貢・・・日本國也」と高麗や新羅が中心国日本に朝貢して日本が邪魔なため、「怒之責高麗之使」と日本が高句麗を追い返した隙に、「阿知使主等渡高麗國欲逹于呉則」と高句麗に近づいたが、「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と日本の配下の倭国なので晋が任命せず、葛城氏と同盟して日本を倒そうとしたと考えられる。

それで、墨江中王を倒し、太子伊耶本和氣の家庭教師になり、「襲津彦久之不還必由新羅人拒而滞之汝等急往之撃新羅・・・新羅之境新羅王愕之服其罪」と襲津彦とともに新羅侵攻を行った。

また、伊耶本和氣の死亡が異臭がしたのに「水土弗調」のように、死因を調べなかったと記述するように異常で、毒殺した可能性があり、磐余若櫻の皇太后が履中天皇五年「葬皇妃」、実際は磐余若櫻宮皇后の薨(神功皇后摂政六九年)で、404年磐余若櫻宮69年にあたり、翌年の「崩干稚櫻宮時年七十」と履中崩で磐余若櫻宮70年となったことを示し、磐余若櫻宮五十琴宿祢から香兒媛の兄弟木事と娘婿の水齒別に皇位が遷ったと理解した。

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