長いので検証を先に述べる。
近飛鳥天皇の日干支は、即位日「元年己丑春正月己巳朔」、死亡日「三年四月丙辰朔」は天文学的日干支で、『日本書紀』も、磐坂市邊押羽の墓を求めた日干支が間違いの他は全て天文学的日干支で、朝廷の暦と考えられ、すなわち、この天皇は億計が499年即位と証明したので、弘計が488年即位、それ以前は飯豊女王が角刺宮で統治したと考えられる。
『日本書紀』の「或本云宮於甕栗」は角刺宮に対抗する平群氏の後継の甕栗宮に勢力を持つ王が存在したからと考えられる。
『日本書紀』と『舊事本紀』は白髪天皇の名前が「武廣國押稚日本根子」、『古事記』は「大倭根子」で、当然『古事記』の「大倭根子」が天皇で「武廣國押」は「広国押建」、「小広国押楯」、「天国押波流岐広庭」、「橘豐日」、「息長足日廣額」と続く蘇我氏の姓と考えられ、「稚日本根子」、「稚足姫」は2代目磐坂市邊押羽と青海郎女の姓と考えていて、甕栗宮に名目上の天皇がいたと思う。
雄計の妹が忍海部女王と名付けられているが、兄弟を見つけた場所が赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室で飯豊女王が忍海部を配下にしていた、すなわち、雄計兄弟を逃がしたと思われる。
「定策以無禁中」すなわち「定策禁中」は後継決定者がいない時に臣下が相談して継承者を決めることで、甕栗宮天皇真鳥が即位できない時に、すなわち次の皇太子の鮪が殺害されて、皇太子不在の隙に、臣下が相談して飯豊青尊を天皇に、億計を皇太子にしたことを示している。
もう一人の「定策禁中」で即位した文武天皇もクーデタで天武天皇を追い出して、臣下の阿閇皇女や不比等が相談して、文武を即位させ、阿閇皇女が皇太子となった。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「白髮天皇二年冬十一月播磨國司山部連先祖伊予來目部小楯於赤石郡親辦新嘗供物適會縮見屯倉首縱賞新室以夜継晝尓乃天皇謂兄億計王曰避禮於斯年踰數紀顯名著貴方屬倉(?兩+月)億計王惻然大曰其自導楊見害孰與全身免死也欤天皇曰吾是去來穗別天皇之孫而困事於人飼牧馬牛豈若顯名被殺也欤遂與億計王抱相涕泣不能自禁矣億計王曰然則非弟誰能激揚大節可以顯者天皇固辭曰僕不才豈敢宣揚德業哉億計王曰弟英才賢德無以過人如此相讓再三而果使天皇自許稱述俱就室外居于下風長倉首命居竈傍左右秉燭于時夜深酒酣次弟傳記長倉首子楯日僕見此秉燭者貴人而賤巳先人而後己恭敬樽節退讓以明礼可謂君子於是小楯撫絃令秉燭者日起儛於是兄弟相讓久而不起小楯嘖之曰何為太遲速起人之億計王起儛既小天皇甚儛如先先儛者矣天皇次起自整衣帶為室壽曰築立稚室葛根築立柱者此家長御心之鎮也採舉棟樑者此家長御心之林也採置椽掩者此家長御心之乎也 採置蘆萑者,此家長御心之平也採葺草葉者此家長御富之餘也出雲者新々饗々之十握稻之穗於淺甕釀酒美飲喫哉吾子等腳日木此傍山牡鹿之角舉而吾儛者旨酒餌香市不以(?貞?直?買)置手掌摎髙拍上賜吾常世等畢乃起節子曰壽云々在別小楯謂之曰可怜願後聞之天皇遂作殊儛誥之曰倭者彼々茅原淺原弟日僕是也小楯由是深奇異矣更使唱之也天皇誥之曰石上振之神椙伐本截末於市邊宮治天下天萬國萬押磐尊御裔僕是也小楯大驚離席悵然再拜承事供給率屬領欽伏於是悉發郡民造宮亦日權奉安置乃詣京都求迎二王也白髮天皇聞喜咨歎曰朕無子也可此爲副與大臣大連定策以無禁中仍使播磨國司來目部小楯持節將左右舍人至赤石奉迎之矣白髮天皇三年春正月天皇隨億計王到攝津國使臣連持節以王青蓋車迎入宮中也夏四月立億計王為皇太子立天皇爲皇子五年正月白髮天皇崩于時皇太子億計王與天皇讓位久而不處天皇妹飯豐青皇女於忍海角刺宮臨朝秉政自稱忍海飯豐青尊冬十一月飯豐青尊崩葬葛城垣口丘陵」、【白髮天皇の治世二年冬十一月、播磨国司で山部連の先祖の伊予来目部小楯が、赤石郡でみずから新嘗の供物を調えた。たまたま縮見屯倉首が新築祝いにきて、夜通しの宴会を開いた。そのとき天皇は兄の億計に「わざわいをここで避けて何年もたった。名を明かして尊い身分だと知らせるには、今宵はちょうどいい」と言い、億計は、「そうやって自分から暴露して殺されるのと、身分を隠して災いを免れるのと、どちらがよいだろう。」と嘆いた。天皇は「私は去來穗別天皇の孫だ。それなのに苦しんで人に仕えて、牛馬の世話をしている。名前を明かして、殺されるのなら殺されたほうがましだ」と言い、億計王と抱き合って泣き、自分を抑えることができなかった。億計は「弟以外に、誰も大事を明かして人に示すことのできる者はいない」と言い、天皇は否定して「私は才がなく、大業を明らかにすることはできないだろう」と言った。億計が「弟は賢く徳があり、これに優る人はない」と言った。このような譲り合いが、二度三度に及んだ。ついに天皇がみずから述べることを許され、共に部屋の外に行き、座の末席に着いた。屯倉首は竈のそばに座らせて、左右に火を灯させた。夜がふけて、宴もたけなわになり、つぎつぎに舞いも終わった。屯倉首は「私がこの火を灯す係りの者を見ると、人を尊んで己を賤しくし、人に先を譲って己を後にしている。謹み敬って節に従い、退き譲って礼節を明らかにしている。君子というべきだろう」と小楯にいった。小楯は琴をひき、火を灯していた二人に「立って舞え」と命じた。兄弟は譲り合ってなかなか立たなかった。小楯は「何をしている。遅すぎる。早く舞え」と責めた。億計は立って、舞い終わった。天皇は次に立って、衣装を整え、家褒めを歌(略)った。家褒めが終わって、節に合わせて歌った云々と別の書にある。「これは面白い。また聞きたいものだ」と小楯がいった。天皇はついに殊舞をした。そして叫び声をあげて歌(略)った。 小楯はこれでとても怪しみ、さらに歌わせた。天皇はまた叫び歌(略)った。小楯はとても驚いて席を離れ、いたみいって再拝した。一族を率いて謹み仕え、残らず郡民を集めて宮造りに従った。幾日もたたず出来た宮に、仮に入ってもらい、都に奏上して、二人の王を迎えるように求めた。白髮天皇はこれを聞いて喜び、「自分には子がない。後継ぎとしよう」と感激した。そうして大臣・大連と策を禁中に定め、播磨国司の来目部小楯に印を持たせて、左右の舎人をつれて明石に行き、迎えた。白髮天皇三年春一月、天皇は兄の億計に従って、摂津国に行った。臣・連がしるしを捧げ、青蓋車に乗って、宮中に入った。夏四月、億計を皇太子とし、天皇を皇子とした。五年一月、白髮天皇は崩じた。そのとき、皇太子億計と天皇とが皇位を譲りあい、長らく即位しなかった。このため天皇の妹の飯豊青皇女が、忍海角刺宮で仮に朝政をみた。みずから忍海飯豊青尊と言った。冬十一月、飯豊青尊は崩じた。葛城埴口丘陵に葬った。】と訳した。
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