『家傳』「大師伝」は「簡授錦冠」の後、「俄而崗本天皇崩」と記述される。『日本書紀』では645年「大錦冠授中臣鎌子」で654年に「天皇崩于正寢」、9年後に急死ではなく正寢である。斉明天皇も七年皇位に就いていた。そして、665年白鳳五年秋八月、「大綿冠内臣中臣連・・・超拝紫冠」とある。『日本書紀』では654年白雉五年正月、「紫冠授中臣鎌足連」とこれも異なる。そして、「俄而天萬豐日天皇」なので、665年、「已厭萬機登遐白雲」と崩じた。665年に官位授与と天皇崩、確かに俄かである。そして、皇祖母尊が「再應寶暦」と再登板し、「悉以庶務委皇太子」と、皇太子が摂政である。
『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像本像台座の框』という遺物がある。「丙寅年四月大旧八日癸卯・・・中宮天皇大御身労坐之時」と666年の天皇は中宮天皇である。『薬師寺東塔の擦管』に「庚辰之歳建子之月以中宮不悆」とある。680年11月に中宮天皇が治らなかったと記述されている。『日本書紀』も680年十一月、「後岡本天皇之喪而弔使」と660年崩じたとした天皇の弔使が記述される。660年ではなく680年の弔使だ。中宮即位は天智天皇が20歳になっていないので、即位できなかったからだ。661年、天智が13歳で皇太子、668年、天智が20歳になり、即位した。694年、天智は46歳で崩じ、鎌足は692年、56歳で薨じた。
『日本書紀』の白雉4年「發遣大唐」に定惠が唐に出発した。そして、一行が唐での死や海死したが、白雉5年「定惠以乙丑年付劉徳高等船歸」と記述される。貞恵は鎌足31歳の長男、不比等は46歳の次男である。しかし、『家傳』「貞恵伝」には、「白鳳5年随聘唐使到于長安・・・時年十有一歳矣」と記述される。「則唐主永徽四年」と記述し、「歳次甲寅」と653年、白雉2年が654年の干支で矛盾だらけだ。614年生まれの鎌足は高齢出産だが、637年生まれなら、鎌足19歳の子、不比等は23歳の子である。そして、白鳳16年、676年に「其年十二月廿三日終於大原之第春秋廿三」と廿二歳、春秋の数えで廿三歳の早逝だった。
629年から、実質の天皇は倭国王の吉備嶋皇祖母だった。飛鳥岡本宮は嶋大臣が生まれた「飛鳥河之傍」だった。貞観五年631年に、高表仁と対応したのは倭王だったことからも解る。そして、天智三年に「大紫蘇我連大臣薨」・「嶋皇祖母命薨」と乙巳の変で倭国は664年に崩壊した。665年麟德二年の封泰山で唐の天子と会った倭國の酋長は中宮天皇だった。670年咸享元年に『新唐書』「號日本國」と俀国は国号を変えた。しかし、大化6年、「長安元年其王文武立改元曰太寶」と文武が即位した。持統十一年697年即位ではなく700年だ。『古事記』は「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期」、すなわち、大化年中だ。文武は潜んでいたがクーデタで新政権を樹立した。実質、襲名した馬古、文武の義父の不比等が天皇と同等だ。
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