『三國志』の年号を検証しよう。233年「青龍元年閏五月庚寅朔」は朔の日干支。239年「景初三年正月丁亥朔」は前年12月30日晦日の日干支。242年「正始三年九月辛未朔」の注記は間違いで、241年の日干支である。ところが、261年の注、「景元二年八月丙子朔」は朔の正しい日干支である。すなわち、正始元年は239年である。「松之桉魏武以建安九年八月定鄴文帝始納甄后明帝應以十年生」と記述される。建安九年は204年、8月に后を迎えたので、翌205年以降の生まれと述べた。その為、「計至此年正月整三十四年耳」、239年正月なら35歳なのに34歳と記述する。この原因は、「景初三年正月丁亥朔」が原因だろう。本来は景初2年12月30日丁亥、34歳である。
ところが、「其以建寅之月為正始元年正月」で、正始元年1月30日丁亥と変化する。さらに、「以建丑月為後十二月」と「時改正朔」で1月は後の12月、後の12月は29日までである。その結果、「景初三年正月朔日丁亥」で、正始元年1月は存在しない。239年閏2月1日が丁亥朔であるが、238年12月に「帝寢疾不豫」なので違うだろう。実際の人々は、正始元年12月まで景初三年12月と思って記録したと考えられる。そのため、『梁書』も「至魏景初三年公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢」と記述される。『日本書紀』の「明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等」も同じ感覚の中にいる。松之も当然、その範疇の人物だろう。
陳寿は明帝には「景初三年丁亥」、齊王には「景初三年丁亥朔」と記述を書き分けた。239年の記録は、齊王の景初三年の記録と、正始元年の記録が記述されたようだ。その中に、倭国記事があったと思われる。正始元年記事の内容は、まだ改元されていなくて、倭人には皇帝が交代したことを知っているが、それでも景初3年である。12月に「詔書報」、明帝は危篤状態で皇后が代行している。正始改元は12月、日本人が知ったのは正始4年の使者が帰国後である。景初4年鏡が存在しても矛盾はない。
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