2023年12月20日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『梁書』が見た「倭國」

  間違い説は『梁書』を引き合いに出すかも知れない。しかし、『三國志』の里単位を隋や唐の里単位の8倍になった目で書いたからと私は考える。『四海華夷総図』と同じ目を文書にしたのだ。日本に行ったことが無い、唐初の権威の「姚思廉」の「私選」の、『梁書』の常識なのだろう。梁朝以外の北朝の資料も使用して、余計な知識を使っているのだろう。

『隋書』は「夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行」と記述する。倭人は里数を知らないと。しかし、『日本書紀』は雄略天皇が創らせた崇神紀で記述して「任那者去筑紫國二千餘里」と。垂仁紀にも田道間守が「受命天朝遠往絶域萬里蹈浪」と短里で言った。『三國志』は対馬を「對海國」と呼んだ。いかにも「狗邪韓國」と対の国で、「狗邪韓國」は倭領だ。任那は「狗邪韓國」と思われ、「對海國」の対馬が統治したから、対馬までの距離100㎞なのだろうか。

そして、大化の記事には「三十里以下四里以上爲中郡三里爲小郡」と記述する。天武・大化の記事は元明朝が記述している。里単位を知っているから、唐朝に合わせて、1里400mの長里に変更している。150m四方の国は有り得ず、1.2㎞四方なら有り得る。隋朝は自分たちが使う里単位と違うから、倭人は里数を知らないと言ったのである。

「扶桑國」の人は短里を使っていた。雄略紀に東漢掬直が「方今區宇一家烟火萬里」と言った。長里だったら、中国を通り越す虚言、短里なら500㎞である。倭国が宋朝に主張する「萬二千里」の領域なら妥当である。

慧深又云扶桑東千餘里有女國」と記述する。『梁書』の倭国の、梁朝以前の記述の多くが慧深の言葉だ。官位の「對盧」を使い、高句麗と関係が深い扶桑国の慧深の言葉を、北朝の長里の単位と考えた。南朝の齊・梁は短里を使う慧深の隋にあった記録を長里と考え、8倍して短里に変換し64倍に。計三万二千里は九州からフロリダまでの距離、短里なら根室までの距離に相当する。書籍の『四海華夷総図』の目の『梁書』が出来上がった。南朝の記録のインドは「中天竺國在大月支東南數千里地方三萬里」である。ブータンからカシミールの間は千五百㎞で短里表記だ。

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