2023年12月15日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』が見た「倭國」1

  倭人伝の里程の合計が合わないと権威は主張する。7百里35㎞、または、千四百里70㎞足りないと言う。「四海華夷総図」を知っている権威は、『三國志』などあてにならないと言う。真実は権威の頭にあり、足りない35㎞、70㎞を陳寿は船行と陸行に置き換えたことに決めた。35㎞でフィリピンまで行かなければならないのだから、誇張したと。船行と陸行で、距離も自由だから、どこにでも行けると権威は考えた。

ところが、陳寿は、通過した場所の紀行文を記述した。「對海國」は「島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴」。「一大國」は「方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴」。「末盧國」は「有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」。「伊都國」は「千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」。「不彌國」も国内の様子を記述しない。陸地がほとんどない、海岸線自体が領内なのだろう。「末盧國」は、陸地に入れないからと海岸線の様子を船から見て記述した。一度は接岸して、「草木茂盛行不見前人」と様子を見たのだろう。そして、また船に戻るという、沿岸船行を示している。すなわち、「末盧國」以外の国々は領内を通過していることを示している。

そして、「度一海千餘里至對海國」、「渡一海千餘里名曰瀚海至一大國」、「渡一海千餘里至末盧國」。「對海國」と「一大國」は国の中を歩いたはずなのに、渡海して至ったとだけ記述している。さらに、「陸行五百里到伊都國」、「行至不彌國百里」と行き至っている。そして、「至奴國百里」、「至投馬國水行二十日」、「至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」は「着きますよ」の意味だ。百里で、水行二十日で、水行十日陸行一月で「着きますよ」と記述している。しかし、「邪馬壹國」の様子を記述しているのだから、実際に行っている。すなわち、「不彌國」から「邪馬壹國」まで、行く必要が無い、0里で行けることを意味する。「奴國」から「邪馬壹國」も那珂川か御笠川が国境と思われる。

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