『三國志』は倭国の構成国の30国を「此女王境界所盡」と記述した。「斯馬國」、「巳百支國」、「伊邪國」、「都支國」、「彌奴國」、「好古都國」、「不呼國」、「姐奴國」。そして、「對蘇國」、「蘇奴國」、「呼邑國」、「華奴蘇奴國」。更に、「鬼國」、「爲吾國」、「鬼奴國」、「邪馬國」、「躬臣國」、「巴利國」、「支惟國」、「烏奴國」、「奴國」である。そして、南に「狗奴國」が有って、「不屬女王」に対抗した国である。「狗奴國」は『後漢書』に「女王國東度海千餘里至拘奴國」と女王国の東、海を渡った場所に、その首都が有った。
「拘奴國」は「千餘里」50㎞、海も渡って彦島辺りが国境だ。景行天皇は周芳娑麼から「南方烟氣多起」と南方に戦乱を見た。『三國志』と同じ南である。すなわち、それ以前に、東の「拘奴國」を南に追いやった。その地を得たのは、久奴(拘奴)直の祖の物部大小木連だろう。「志賀髙穴穗宮御宇天皇御世侍臣」、150年頃で、時代も合う。兄弟の大小市連は小市直の祖、嘉穂郡に小市神社が有り、小市という地名が有ったのだろう。大倭王の淡海の天皇の配下が「大倭王居邪馬臺國」と筑紫か宗像に居たと思われる。
それで、「桓靈間倭國大亂更相攻伐」後、「一國之魁帥」と壹国の頭領がいた。景行12年の九月甲子朔は206年の日干支だろう。景行天皇は根の纏向王で、大倭王は但馬・丹波・若狭・敦賀・淡海道・野洲・大津の王だ。「神夏磯媛」の神の那津伊襲媛、那珂河河口の伊襲国女王で一大率を置いていた。伊都と呼んだのは、首都の高千穂宮が有るからなのだろうか。「神夏磯媛」と景行天皇によって「邪馬壹國」は落ち着いたが、首都を移動して南の「狗奴國」はまだ存在する。領域は菟狹川上、三毛、碩田、速見、直入、來田見、竹田市の稻葉川、大野、直入、熊縣、玉杵名が敵国である。日向國、葦北、八代縣、阿蘇、大牟田の筑後國の御木、八女、浮羽は友好国のようだ。阿蘇を含む友好国、そして倭国の中の蘇を含む女王国の構成国がよく合致する。すなわち、「南至投馬國」と「投馬國」へ行く途中、九州西岸の肥前・肥後の国が21国と考えられる。倭は『山海經』の「海内東經」に記述される。「海內東經」は黄海、東シナ海を指す。「草野姫」の草は天草の草だろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿