南の「狗奴國」との戦いで、不戦の国と、交戦した国がなぜ有ったのか。そして、『後漢書』の東の「拘奴國」はどのようにして『三國志』の南の「狗奴國」となったのか。豊後や日向は敵の熊襲ばかりなのに、菟狹川下、日向高屋宮では戦いが無い。理由は思い当たる。高千穂宮の人物、神武(おそらく豐御毛沼)の東征である。最初に向かったのが、「速吸之門」、関門海峡である。そこに「曲浦」を統治する、珍彦を配下にする。元々は配下でなかった、「拘奴國」の人物だろう。
そして、同様に、菟狹へ侵略すると、菟狹津彦がいた。菟狹津彦は破れて、侍臣天種子を菟狹津媛に迎え入れ、配下になった。天種子の子は安芸で、豊秋津国の中臣となった。この、三地点の内側が『後漢書』の東の「拘奴國」である。この結果、『後漢書』の東の「拘奴國」は『三國志』の南の「狗奴國」になったと考えられる。すなわち、豊国が東の「拘奴國」だった。
日向は日本童男が川上梟帥を殺害し、さらに、弟彦達が「悉斬其黨類」と殲滅した。童男は諸縣君牛諸井の祖先なのだろう。弟彦は景行天皇だった。おそらく、子達は御刀媛や日向髪長大田根を妃にして、阿牟君の始祖の日向襲津彦や、日向國造の始祖の豐國別を生む。
そして、『三國志』の南の「狗奴國」を掃討して、物部印岐美が「久努直」と「狗奴國」王となったようだ。印岐美、壹君とも書け、熊襲討伐の先遣の物部君の祖の夏花の子の可能性がある。さらに、橿日宮の卑弥呼は松峽宮へ、「熊鷲」と「御笠」で戦った。そして、朝倉の夜須、山門縣の『三國志』の南の「狗奴國」を滅亡させた。『晋書』以降、「狗奴國」は記述されない。『晋書』に泰始二年十一月己卯「倭人來獻方物」、義熙九年「倭國・・・獻方物」と倭は引き続き朝貢している。しかし、親晋倭王ではない。晋にとって、倭の重要性が減った。その結果、倭は畿内政権にすり寄っている。「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」である。
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