2023年12月18日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』が見た「倭國」2

 「邪馬壹國」までの、足りないと言われている35㎞は、「伊都國」と「不彌國」の領内の距離である。「末盧國」は船行途中での記述で領内に入らず、「末盧國」は東南端の国境松浦川で、船を降りたと思われる。「不彌國」は陸行と記述しない。船行で領内を、立ち寄って通過したので、詳述されていないようだ。そして、「不彌國」と「邪馬壹國」の国境の河に到着する。国境は唐原川だろう。1国の領内の距離は「對海國」と「一大國」で記述した、3~4百里(15~20㎞)である。「奴國」を「陸行」せず、行っていない。だから、能古島・志賀島・海の道の博多湾北岸の遊覧の旅である。

能古島・志賀島・海の道の南には、「奴國」と「邪馬壹國」がある。「不彌國」の「千餘家」に対して、「奴國」が「二萬餘戸」、「邪馬壹國」は「七萬餘戸」である。千対九万の90倍の人口の土地、横幅が20㎞で、南北が2㎞対20㎞の土地である。住民比でも合致する。「伊都國」と「奴國」の国境は三瀬峠越えの「百里」で5㎞、「伊都國」と「不彌國」の国境は海を隔てて田尻、能古島間の、「百里」で5㎞である。陳寿は事実を記述し、後代の権威は、無い「景初三年」が有る、と記述した。

最初から解っていた。韓国から「一大國」まで、対馬の島内を通らないと、船行二千里の100㎞で行けない。約150㎞、三千里になる。『三國志』は95パーセント以上正しいのだから、正しくなるように理解した。正しく無かったら、考えるのも無駄だ。東でなく南なら、北や西かも、船で無く、筏で流されたかも。船行が10年でも何でも有り、万里と書き間違えても、だ。ご当地だと主張できても、証明できないから、首都遺跡の証拠がある纏向で決定だ。

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