2022年9月12日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「于時皇太子菟道稚郎子皇子讓位于大鷦鷯尊未即帝位仍諮大鷦鷯尊夫君天下以治万民者蓋之如天容之如地上有驩心以使百姓百姓欣然天下安矣今我也弟之且文獻不足何敢繼嗣位登天業乎大王者風姿岐嶷仁孝遠聆以齡且長足為天下之君其先帝立我為太子豈有能才乎唯愛之者也亦奉宗廟社稷重事也僕之不佞不足以称夫昆上而季下聖君而愚臣古今之典焉願王勿疑頃即帝位我則為臣之助耳大鷦鷯尊對曰先皇謂皇位者一日之不可空故預選明徳立王爲貮祚之以副授之以民崇其寵章令聞於國我雖不賢豈棄先帝之令輙從弟王之願乎固辭不承各相讓之」、【皇太子の菟道稚郎子は、位を大鷦鷯に譲ろうと、即位しなかった。そうして大鷦鷯に「天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天のごとく、受け入れることは地のごとくでなければならない。上に民を喜ぶ心があって人民を使えば、人民は欣然として天下は安らかだ。私は弟、またそうした過去の記録もなく、どうして兄を越えて位を継ぎ、天業を統べることができるか。大王は立派で仁孝の徳もあり、年も上だ。天下の君となるのに十分だ。先帝が私を太子としたのは、特に才があるからというわけではなく、愛しかっただけだ。宗廟社稷に仕えることは、重大なこと。私は不肖でとても及ばない。兄は上に弟は下に、聖者が君となり、愚者が臣下となるのは、古今の定め。どうか王はこれを疑わず、即位してほしい。私は臣下となって助けるだけだ」と頼んだ。大鷦鷯尊は「先帝も”皇位は一日たりとも空しくしてはならない”と言った。それで前もって明徳の人をえらび、王を皇太子として立てた。天皇の嗣にさいわいあらしめ、万民を授けた。寵愛のしるしと尊んで、国中にそれを知らせた。私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、たやすく弟王の願いに従えますか」と答えて、固く辞退して受けず、お互いに譲り合った。】と訳した。

この説話は、葛城氏と物部氏の皇位継承争いで、履中天皇即位時の混乱を描いた説話、襲津彦の子の黒媛の父葦田宿禰をバックにした去來穗別と、尾張氏大草香皇子・額田大中彦と平群氏をバックにした住吉仲皇子と、難波天皇大別の子の木事をバックにした瑞齒別と、また、若沼毛二俣王の子の意富々杼王は「山道君・・・祖」のように大山守と考えられ、その大山守と額田大中彦と宇遲能和紀郎子の争いを記述したものと考えられる。

額田大中彦が374年仁徳天皇六二年に「是歳額田大中彦皇子獵于闘鷄・・・因喚闘鷄稻置大山主」と大中彦と大山守の関係は良好である。

この説話には阿知使主や吾子篭が記述され、これらの人物は履中紀で記述され、履中天皇即位時の混乱と理解され、菟道稚郎子は『舊事本紀』396年「八十二年春二月乙巳朔詔侍臣物部大別連公」「八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と397年に天皇が崩じ、3年間皇位が定まらず、仁徳就任と同じ無位期間で、襲名大別の兄弟の子が宇遲能和紀郎子の可能性が高い。

すなわち、難波朝天皇襲名大別の木事と、磐余稚櫻朝・五十琴宿禰の皇子で大別の兄弟の山無媛の子の宇遲能和紀郎子がそれぞれ、襲津彦と大鷦鷯が後ろ盾になって戦った説話で、その結果、大鷦鷯が後ろ盾の河内難波朝廷は残ったが、菟道稚郎子は敗れて、襲津彦の恐らく孫ではなく曽孫の2代目去來穗別(恐らく妃が袁那辨郎女か宇遲之若郎女か八田若郎女)が磐余稚櫻朝を受け継いだと思われる。

ただし、397年の干支は丁酉、丁卯は427年で『古事記』と同じ、従って、先代大別の難波宮天皇が397年に死亡し、若櫻宮天皇襲名五十琴宿禰の宇遲能和紀郎子が400年まで難波宮天皇を兼務し、400年に去來穗別が若櫻宮天皇に即位し、そして、大別が難波宮天皇に即位し、405年去來穗別が死亡し、427年丁卯に大別が死亡したと考えられる。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿