2022年9月16日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書4

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「而興宮室於菟道而居之猶由讓位於大鷦鷯尊以久不即皇位空之既經三戴有海人費鮮魚之苞苴獻于菟道宮也太子命海人曰我非天皇乃返之令進難波大鷦鷯尊亦返以令獻菟道於是海人之苞苴鮾於往還更返之取他鮮魚亦獻焉讓如前日鮮魚亦鮾海人苦於屎還乃棄鮮魚而哭故諺曰有海人耶因己物以泣其是縁矣太子曰我知不可奪兄王之心豈煩久生之煩於天下乎乃自死焉時大鷦鷯尊聞太子薨以驚之從難波馳之到菟道宮爰太子薨之經三日時大鷦鷯尊摽擗叫哭不知所如乃解髮跨屍以三呼曰我弟皇子乃應時而活自起以居大鷦鷯尊語太子曰悲乎惜乎何(?)以欤自遊若死者有知先帝何謂我乎乃太子啓兄王曰天命也誰能留焉若有向天皇乃御所具奏兄王聖乃且有讓矣然聖王聞我死以急馳遠路豈得無勞乎乃進同母妹矢田皇女曰雖不足納采僅充掖庭之數乃且伏棺而薨矣於是大鷦鷯尊素服為之發哀哭之甚慟仍薨於菟道山上也」、【太子は宮を菟道に興して住んだが、位を大鷦鷯に譲っているので長く即位しなかった。皇位は空いたまま三年が過ぎた。ある漁師が、鮮魚の献上品を菟道宮に献じた。太子は漁師に「自分は天皇ではない」と言い、返して難波に献上させた。大鷦鷯は、また返して菟道に献上させた。漁師の献上品は両方を往復している間に、古くなって腐った。それでまた、あらためて鮮魚を献上したが、譲り合うのは前と同様で、鮮魚はまた腐った。漁師は途方にくれて鮮魚を捨てて泣いた。ことわざに、「海人でもないのに、自分の物のため泣く」というのは、これが由来だ。太子は、「私は兄王の心を変えられないことを知った。長く生きて天下を煩わせたくない」と自殺した。大鷦鷯は太子が薨じたことを聞いて、驚いて難波の宮から急遽、菟道宮に来た。太子の死後三日経っていた。大鷦鷯は胸を打ち泣き叫んで、なすすべを知らなかった。髪を解き死体にまたがって、「我が弟よ」と三度呼んだ。するとにわかに生き返り、大鷦鷯は太子に「悲しい。悔しい。どうして自殺などするのか。もし死んだと知れたら、先帝は私を何と思うか」いうと、太子は大鷦鷯に「天命だ。誰もとめることはできない。もし先帝のもとに行くことがあったら、詳しく兄王が聖で、何度も辞退したと言おう。あなたは私の死を聞いて、遠路駆けつけてくれた。お礼をしなければならない」と言い、同母妹の矢田皇女を献上して「引きとるのも迷惑だろうが、どうか後宮の数に入れてほしい」と言い、また、棺に伏せって薨じた。大鷦鷯は麻の服を着て、悲しみ慟哭すること甚だしかった。遺体は菟道の山の上に葬った。】と訳した。

この淡海天皇の菟道稚郎子は菟道に都を持ち、菟道に陵墓を造ったが、歴代の天皇は多くが首都と無関係な場所に葬られていて、神武から懿徳まで、首都が葛城に変わっても橿原の畝傍に陵墓を造り、孝昭から開化は孝霊の時、磯城の時には生駒だが首都とほゞ同じ葛城・橿原で、それ以降は疑問が残る首都と陵墓の関係となっている。

私はこれまで、天皇名は葛城氏の王の役職名と述べてきたが、氏族にとって一番重要な宗廟・葛城氏代々の陵墓の記録が残されていないのが腑に落ちず、検証したら、この現象を確認できた。

すなわち、葛城氏本家は磐余彦火火出見から大倭彦耜友まで、廟が橿原にあり、觀松彦香殖稻は天皇波延の腹心として、更に天皇大倭根子として宗廟を造ったが、稚倭根子と退位して大彦の配下の分家、恐らく分家の大諸見足尼が木国の木津に宗廟を造ったと考えられ、垂仁も木国近辺の生駒に陵墓を造った。

ところが、崇神時に山邊道上に陵墓を造っているが、景行時にも倭国山邊道上に陵墓を造っていて、葛城氏は屋主忍男武雄心が野洲朝廷を開いたと述べたが、野洲は倭岐・倭国の意味で、開化朝時の木国山代の内臣から倭国王が分家したため、開化朝では木津、垂仁朝は生駒と内臣の廟で、武内宿祢の直系平群氏は首都の野洲の山邊道上の陵墓とすると理に適い、成務時も、神功皇后も倭國狹城盾列で倭建も伊勢の能褒野で、この時の伊勢は倭国野洲近辺の伊勢遺跡の伊勢で、これらの淡海朝廷の天皇屋主忍男武雄心から息長帯姫までの葛城天皇の宗廟であったようだ。

ところが、仲哀時から首都が変わっても河内に陵墓を造り続け、この意味は、倭国野洲の皇室を構成していた、本家の平群氏が日向から東侵してきた襲津彦に畿内を追い出されて、生駒や難波や河内を領有し、『古事記』には清寧時まで河内に宗廟を持ったと記述されるが、『日本書紀』には記述されず、葛城氏本家の平群氏が『日本書紀』執筆時の天皇で清寧時まで平群王朝で河内に廟が造られ、その後、葛城氏が皇位を奪取して橿原の干傍丘磐杯丘に廟を造ったと考えれば、筋が通り、天皇名や陵墓は平群・葛城氏の天皇名や陵墓だったことが解る。

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