『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「亦一時天皇爲將豊樂而幸行日女嶋之時於其嶋鴈生卵尓召建内宿祢命以歌問鴈生卵之状其歌曰多麻岐波流宇知能阿曽那許曽波余能那賀乃比登蘇良美都夜麻登能久迩(尓)加理古牟登岐久夜於是建内宿祢以歌語白多迦比迦流比能美古宇倍志許曽斗比多麻閇麻許曽迩斗比多麻閇阿礼許曽波余能那賀乃比登蘇良美都夜麻登能久迩尓加理古牟登伊麻陀岐加受如此白而被給御琴歌曰那賀美古夜都毘迩(尓)斯良牟登加理波古牟良斯此者本岐歌之(拜)片歌也此之御世兎(免)寸河之西有一高樹其樹之影當旦日者逮淡道嶋當夕日者越高安山故切是樹以作舩其(甚)捷行之舩也時号其舩謂枯野故以是舩旦夕酌淡道嶋之寒泉獻大御水也(置)茲舩破壊以焼塩取其焼遺木作琴其音響七里尓歌曰加良怒表(袁)志本尓夜岐斯賀阿麻理許登尓都久理加岐比久夜由良能斗能斗那加(賀)能伊久理尓布礼多都那豆能紀能佐夜佐夜此者志都歌之歌返也此天皇(之)御宇(年)捌拾参歳(丁卯年八月十五日崩也)御陵在毛受之耳上原也」、【亦、ある時、天皇が宴会をして、日女島に出かけたとき、その島に鴈が卵を生んだ。それで建内宿禰を招いて、歌で鴈が卵を生んだ状況を聞いて歌(略)った。建内宿禰は、歌(略)った。この様に言って、琴をもらって歌(略)った。これは祝福の歌の問答歌だ。この世に、免寸河の西に一つの高い樹が有った。樹の影は、朝日に当れば、淡道島に届き、夕日に当れば、高安山を越える。それで、この樹を切って船を作ると、とても速い船になった。ある時その船を枯野と名付けた。それで、この船で朝夕に、淡道島の井戸水を酌んで、献上した。この船に穴が開いたら壊して塩を焼いて、燃え残った木を取って琴を作ると、音が七里に響き渡った。それで歌(略)った。これは志都歌の返歌だ。天皇の年は捌拾參歳。丁卯の年の八月十五日に崩じた。陵は毛受耳上原に在る。】と訳した。
建内宿禰は景行天皇三年73年から仁徳天皇五十年362年まで記述され、しかも全天皇に事績として出現するが、これは、木国の山代の内の建氏に婿入りして磯城天皇に内王・大国将軍として仕えてきたと考えられ、大国将軍の建内宿禰を継いで大鷦鷯、分家の日向襲津彦の東侵で400年から葛城氏が天皇になったと考えられる。
葛城氏は葛󠄀木直の祖の大諸見足尼・稚倭根子大毘ゝが大綜麻杵の娘の伊香色謎を妃に御間城入彦、2代目大彦の娘の御間城姫を妃に活目入彦生み、兄弟に伊邪能眞若が存在し、伊奢沙和氣大神が伊邪能眞若と考えられる。
武埴安彦の反乱で活躍して生駒を領有して生駒の活目入彦、活目入彦は竟富那毘・弟彦の妹の葛城之高千那毘賣を妃に山代内臣の祖の味師内宿禰を生み、宇豆比古の妹を妃にすることで建氏を名乗り、四道侵攻で「吉備津彦遣西道」に若建吉備津日子の配下で従軍して小国の少名日子建猪心、若建吉備津日子の娘を妃に大帯彦と出世したようだ。
大帯彦は大碓(大帯彦)、小碓(仲帯彦)、倭根子(海部根子・稚帯彦)を生み、小碓は熊襲に侵攻し、日向髪長大田根を妃に日向襲津彦が生まれ、『紀氏家牒』に葛城襲津彦の母は「葛城国造荒田彦之女葛比売生襲津彦宿祢」とあり、これは、『古事記』の「娶葛城之野伊呂賣此生御子伊奢能麻和迦王」と同じ内容の襲名と思われる。
尾張連の祖の建伊那陀宿祢の孫の品它真若の娘の高木之入日賣の子「額田大中日子命次大山守命次伊奢之真若命」とあるように、軽嶋豊明宮天皇の子の伊奢之真若の名を日向襲津彦の子の名と交換したようだ。
日向諸縣君は日向襲津彦の母の日向髮長大田根の父か兄弟と思われ、日向襲津彦と行動を共にして、生駒を征服し、その娘の髮長比賣を尾張軽嶋豊明宮天皇が妃にすることで、天皇を「烟氣不起於域中」と貧窮する土地の難波に追い出したと思われる。
また、八田皇女は妃になったのが仁徳天皇二二年で、元年に菟道稚郎子から『日本書紀』「進同母妹八田皇女」と勧められたが、二十年以上たってからの「納八田皇女將爲妃」は矛盾し、おそらく、難波に遷都した天皇に襲津彦と国替えした大鷦鷯がついて、襲津彦の影響力が小さくなって、淡海朝廷の多遅麻が八田皇女を皇后にすることで、兄弟の大別が皇位を奪取し、襲津彦は朝鮮半島で財力を蓄えて400年に、襲名した五十琴宿禰から200年間続く磐余稚櫻宮朝廷を引き継いだと思われる。
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