2022年9月2日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』応神天皇類書5

  この項は説話が長いので、原文は後ろに記述する。

この仁徳後継説話は、仁徳天皇が応神天皇の子と名前を交換したため、武内氏後継者の山代王だった平群氏が河内・平群に国変えされたのを、葛城応神朝から皇位を取り返した説話と、尾張朝廷から物部朝廷への皇位奪取を混ぜ合わせて記述したものと考えられる。

品陀眞若王の妃の金田屋野姫の兄弟の尾綱根が『舊事本紀』「譽田天皇御世爲大臣」と皇太子の地位を得ていて、品陀眞若王の娘の高城入姫などを妃に天皇となり、「品太天皇御世賜尾治連姓爲」と輕嶋明宮天皇大臣大連、弟彦が難波宮天皇と継いで、「意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣」と意乎巳が難波宮の皇太子になったが、321年神功皇后と共に忍熊王を殺した印葉の弟の和珥臣祖武振熊・大別が恐らく、350年仁徳天皇三八年「立八田皇女爲皇后」の時、難波根子と天皇に就任し、「坂合連金連之子此連允恭天皇御世爲寵臣供奉」と、葛城朝廷滅亡とともに尾張氏は皇族では無くなった。

もう一人の説話は穴太足尼・息長宿禰の娘婿の子の淡海朝を受け継ぐ応神天皇の若沼毛二俣王・五十琴宿祢は「物部五十琴宿祢連・・・多遅麻大連女香兒媛為妻」と穴穂宮天皇多遅麻の娘の山無媛・香兒媛を妃に莵道稚郎子と矢田皇女、雌鳥皇女が生まれ、山無媛の兄弟の印葉が「印葉連公為大臣」とあるように、莵道稚郎子と皇位を争い、印葉が大臣と天皇になっていないので「多遅麻・・・五十琴彦連公女安媛爲妻」と五十琴彦の兄弟で多遅麻の娘婿の五十琴宿祢に磐余若櫻宮天皇の皇位を奪取され、淡海天皇の璽は山無媛、雌鳥媛が継承者の大神、天皇は五十琴宿祢へと継承されたようだ。

そして、平群氏の大泊瀬幼武・襲名大雀は配下の近江山君に隼総別と雌鳥皇女を殺害させ天皇の璽を得て、尾張氏の草香幡梭姫、和珥臣の童女君、葛城の韓媛を妃にして、三王朝を滅ぼした説話を大中彦・大山守・菟道稚郎子に当て嵌めて記述したと考えられる。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故天皇崩之後大雀命者從天皇之命以天下譲宇遅能和紀郎子於是大山守命者違天皇之命猶欲獲天下有殺其弟皇子之情竊設兵將攻尓大雀命聞其兄備兵即遣使者令告宇遅能和紀郎子故聞驚以兵伏河邊亦其山之上張陀()垣立椎()幕詐以舎人爲王露坐呉床百官恭敬往來之状既如王子之坐所而更()其兄王渡河之時具飾舩檝者春佐那葛之根取其汁滑而塗其舩中之簀椅設蹈應仆而其王子者服布衣褌既爲賤人之形執檝立舩於是其兄王隠伏兵士衣中服鎧到於河邊將乗舩時望其嚴餝之處以爲弟王坐其呉床都不知執檝()立舩即問其執檝者曰傳聞茲山有忿怒之大猪吾欲取其猪若獲其猪乎尓執檝者荅曰不能也亦問曰何由荅曰時々也往々也雖爲取而不得是以白不能也渡到河中之時令傾其舩堕入水中尓今乃浮出随水流下即流歌曰知波夜夫流宇遅能和多理迩佐袁計()理迩波夜祁牟比登斯和賀毛古迩許牟於是伏隠河邊之兵彼廂此廂一時共興矢刺而流故到訶和羅之前而沈入故以鈎探其沈處者繋其衣中甲而訶和羅嶋()故号其地謂訶和羅前也尓掛出其骨之時弟王歌曰知波夜比登宇遅能和多理迩和多理是迩多弖流阿豆佐由美麻由美伊岐良牟登許々呂波母閇杼伊斗良牟登許々呂波母閇杼母登幣波伊毛袁淤母比傳伊良那祁久曽許尓淤母比傳加那志祁久許々尓淤母比傳伊岐良受曽久流阿豆佐由美麻由美故其大山守命之骨者葬(?)于那良山也是大山守命者(土形君幣岐若()榛原君等之祖)於是大雀命與宇遅能和紀郎子二柱各譲天下之間海人貢大贄尓兄辞令貢於弟弟辞令貢於兄相譲之間既經多日如此相譲非一二時故海人既疲往還而泣也故諺曰海人手()因己物而泣也然宇遅能和紀郎子者早崩故大雀命治天下也」、【それで、天皇が崩じた後、大雀は天皇の命令に従って、天下を宇遲能和紀郎子に譲った。それに大山守は天皇の命令に反して、天下を獲ろうと思い、弟を殺そうと思って、密かに軍隊を編成して攻めようとした。そこで大雀は、兄の軍勢を備えたと聞いて、使者を派遣して、宇遲能和紀郎子に告げた。それを聞いて驚き、軍勢を河辺に伏せて、山の上に、とばりを張り 垂れ幕を立てて、騙して近習を王として、見えるように胡床に坐らせ、役人が敬って往き来する様子は、王子が座る所のようで、更に、その兄王が河を渡る時の爲に、船の櫂を置いておき、蔓の根本を突いて、そのぬめを取って、その船の中の葦で編んだ椅子に塗り、踏むと倒れるようにして、王子は、布の衣褌を着て、賎しい人の姿になって、舵をとって船に立った。ここで兄王は、兵士に伏せて隱れさせ、衣の中に鎧をつけて、川辺について、船に乗ろうとする時に、その様子見て、弟王が胡床に座っていると思い、舵をとって船に立っているのを知らず、舵取りに「この山に激しく怒る大猪がいると人伝に聞いた。私はその猪を狩ろうと思う。その猪は獲れるか。」と問いかけた。それで舵取りは「できない。」と答えた。亦「どうしてか。」と問うと、「いつどこで狩ろうとしても獲られない。だからできないと言った。」と答えた。そして、河の中程に渡った時、船を傾けて、水の中におとした。そこで浮かび出て、水流のままに流れ下った。それで流れて歌った()。ここで河辺に伏せて隱れた兵士達はそこら中、一斉に起き上がって、矢を刺して流した。それで、訶和羅の所で沈んだ。それで、鉤で沈んだところを探ると、衣の中の鎧にかかって、訶和羅と鳴った。それで、そこを訶和羅の前といった。そこで屍を引き出した時、弟王が歌った()。それで、大山守の屍は、那良山に葬った。この大山守は、土形君、幣岐君、榛原君の祖だ。そして、大雀と宇遲能和紀郎子と二柱は、各々天下を讓りあっている間に、海人が大贄を献上した。そこで兄は辞退して弟に献上させ、弟も辞退して兄に献上させて、其々讓りあいしている間に、既に多くの日が経った。このように譲り合うのは、一回や二回ではなかった。それで、海人はとうとう往来に疲れて泣いた。それで、諺に「海人よ、自分の物のために泣く。」といった。それなのに宇遲能和紀郎子は早く崩じた。それで、大雀は、天下を治めた。】と訳した。

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