『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「新羅人参渡來是以建内宿祢命引率爲渡之堤池而作百済池亦百済國主照古王以牡馬壹疋牝馬壹疋付阿知吉師以貢上(此阿知吉師者用(阿)直史等之祖)亦貢上横刀及大鏡又科賜百済國若有賢人者貢上故受命以貢上人名和迩吉師即論語十巻千字文一巻并十一巻付是人即貢進(此和尓吉師者文首等祖)又貢上手人韓鍛名卓素亦呉服西素二人也又秦造之祖漢直之祖及知醸酒人名仁番亦名須ゝ許理等参渡來也故是須須許理醸大御酒以獻於是天皇宇羅宜是所獻之大御酒而御歌曰須々許理賀迦美斯美岐迩和禮恵比迩祁理許登那具志恵具志尓和禮恵比迩祁理如此之歌幸行時以御杖打大坂道中之大石者其石走避故諺曰堅石避酔人也」、【亦、新羅人が来訪した。それで建内宿禰の命令で、堤池に、労役で百濟池を作った。亦、百濟の国主の照古王が、牡馬一疋、牝馬一疋を阿知吉師にあつらえて献上した。此の阿知吉師は阿直史の祖だ。亦、横刀や大鏡を献上した。又、百濟国に、「もし賢人がいたら献上しなさい。」と命じた。それで、命を受けて献上した人は和迩吉師で、論語十卷、千字文一卷、併せて十一卷を是の人に添えて献上した。この和迩吉師は文首の祖だ。又、韓の鍛冶職人の卓素、亦、呉の機織りの西素二人を献上した。又、秦造の祖、漢直の祖、及、酒の醸造法を知る人で、名は仁番、またの名は須須許理達が、参上した。それで、須須許理が酒を醸造して献上した。天皇は、献上された酒で陽気になって歌った(略)。この様に歌って外出した時、杖で大坂の道で大石を打つと石が飛んで行った。それで、諺に「堅い石も醉人を避ける。」と言う。】と訳した。
前にも記述したとおり、この説話は仁徳天皇三一年「立大兄去來穂別尊爲皇太子」、343年に倭奴国で王朝交代した阿知使主の説話で、346年即位の照古王と合致し、吉師は日本では使主、新羅の尼師の事と思われ、この時代は、新羅で訖解尼師今・奈勿尼師今と王の名に入り、帝都を京師と呼んで、師は皇帝を意味したようだ。
この頃、新羅や日本では新羅王が使主で百濟王が主で新羅が百濟を統治していたと考えていたようだ。
また、『日本書紀』では阿直岐と記述され、岐は国神の意味で臣とおなじで、「阿知使主等渡高麗國欲逹于呉則至高麗更不知道路」と西晋ではなく東晋への交流法を尋ねているので、369年以降の説話で、正しい朔の阿直岐の説話は「習諸典籍」を王仁に習ったという、畿内の説話と思われ、「黨類十七縣而來歸」と朝廷に帰順し、「阿直岐亦能讀經典即太子菟道稚郎子師」と太子の家庭教師となったと思われる。
また、『三国史記』に近肖古王三十年「冬十一月王薨古記云百濟開國已來未有以文字記事至是得博士高興始有書記」と、近肖古王以前は文字記録していなくて、近肖古王から記録があったと考えられ、近肖古王27年・28年に「遣使入晉朝貢」と晋に朝貢していて、この時に 論語、千字文を手に入れ、文字使用が始まったと思われる。
そして、恐らく、373年に百濟の後見の倭奴国王阿知使主が、正しくない朔の説話の「胸形大神有乞工女」と仲帯彦の政権に、 「論語十卷千字文一卷」を送り、それで、仲帯彦の政権も史書を記録し、403年の「諸國置國史記言事達四方志」に繋がり、『梁書』の倭国・文身国・侏儒国・大漢国の史書を提出させて、朝廷の畿内・扶桑国の史書、恐らく、「欲聘瑞齒別天皇之女等女名不見諸記」の「諸記」をまとめ、『日本書紀』の「安康紀」まで記述したと考えられる。
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