2022年8月8日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神功皇后類書1

  『日本書紀』は纏向朝廷への侵攻と外交の説話であった。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「氣長足姬尊者稚日本根子彦火日々天皇之曾孫氣長宿祢王女也母日葛城宮顙額也仲哀天皇二年立為皇后幼而聰明客貌壯麗父王異焉九年春二月足仲彦天皇崩於築紫橿氷宮皇后傷天皇不從神教而早崩之事以為知其神名則令群臣百僚以解罪改過更造齋殿乃託皇后祈請先託神名等事具在別記十月己亥朔辛丑神祇荒魂奉齋別舩亦以和魂齋皇后舩師領舩軍従和珥津解纜進發幸新羅國状具在征服三韓記十二月戊戌朔辛亥皇后皈自新羅則誕生譽田天皇於築紫故時人号其産處田宇弥也明年春二月皇后領群卿及百僚遷穴門豐浦宮即收天皇之喪從海路以向京時麛坂王忍熊王聞天皇崩亦皇后征西并皇子新生而密謀之曰今皇后有子群臣皆從焉必共議之立幼王矣吾等何以兄從并乎云設兵待敵並従誅軒云々事具在別記元年冬十月丁巳朔甲子群臣尊皇后日皇太后大歳辛巳改為攝政元年物部多遅麻連公為大連二年冬十一月丁亥朔甲午葬於河内國長野陵三年春正月丙戌朔戊子譽田別皇子立為皇太子都於磐余謂稚櫻宮物部五十琴宿祢為大連六十九年夏四月辛酉朔丁丑皇太后崩於稚櫻宮冬十月戊午朔壬申葬狹城楯列陵是日追尊皇太后日氣長足姬尊」、【気長足姫命は、稚日本根子彦大日々天皇の曾孫で気長宿祢王の娘だ。母を葛城高額姫という。仲哀天皇の治世二年に、皇后となった。幼いときから聡明で、容貌もすぐれて美しく、父の王もいぶかしがるほどだった。九年の春二月、足仲彦天皇は筑紫橿氷宮で崩じた。皇后は、天皇が神のお告げに従わないで、早くに死んだことを傷んで思ったのは、祟った神を知って群臣百寮に命じて、罪を払い過ちを改めて、さらに斎殿をつくって、そこで神がかりした。皇后が、さきに神託をくだした神に祈り願ったことは、別の書に詳しくある。十月己亥朔辛丑、神々の荒魂を別の船に祀り、また和魂を皇后の乗る船に祀って、船軍を率いて和珥津から船出した。新羅国を巡った様子は、征服された三韓の国の書に詳しくある十二月戊戌朔辛亥、皇后は新羅から戻り。譽田天皇を筑紫で産んだ。そのため、人はその出産の地を名づけて、宇弥といった。翌年の春二月、皇后は群臣と官僚を率いて、穴門豊浦宮に遷った。天皇の遺骸をおさめて、海路で京に向かった。そのとき、麛坂王と忍熊王は、天皇が崩じ、皇后は新羅を討ち、皇子が新たに生まれたと聞いて、「いま、皇后には子がいて、群臣はみな従っている。きっと共に議って幼い王を立てるだろう。私たちは兄であるのに、どうして弟に従うことができよう」とひそかに謀って兵を集めて敵対した。このため、その後、殺された。これらのことは別の書に詳しくある。神功摂政元年冬丁巳朔甲子、群臣は皇后を尊んで、皇太后と言った。太歳辛巳年に改めて、摂政元年とした。物部多遅麻連を大連とした。二年の十一月丁亥朔甲午、天皇を河内国の長野陵に葬った。三年正月丙戌朔戊子、誉田別皇子を皇太子にした。磐余に都を造り、これを稚桜宮という。物部五十琴宿祢を大連とした。六十九年四月辛酉朔丁丑、皇太后は稚桜宮で薨じた。十月戊午朔壬申、狭城盾列陵に葬った。この日に皇太后を尊んで、気長足姫と呼んだ。】と訳した。

十月己亥朔と十二月戊戌朔と三年正月丙戌朔は『日本書紀』と同じだが、正しい朔ではなく、内容が新羅出兵と筑紫の地名説話と立太子説話で、新羅出兵は、壹與元年、沾解尼師今三年夏四月「倭人殺舒弗邯于老」と検証し、地名説話は筑紫に首都が有る女王の地名命名説話を考えるのが、論理的な思考法で、立太子は後述する。

大中姫の朝廷が崩壊した後に多遅麻が大連になっていて、すなわち、213年頃に淡海天皇の多遅麻が纏向天皇と皇太子の忍熊王を殺害して吸収したことを示していると思われ、『舊事本紀』垂仁「八十一年春二月壬子朔五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」は間違いの朔で西暦28年垂仁天皇五七年が二月壬子朔で、この時十市根が皇太弟になったと思われ、その三十年後なら天皇も十市根夫人の大中姫も高齢である。

そして、垂仁天皇八七年に神寶を得て纏向珠城宮天皇に即位し、纏向日代宮天皇膽咋宿禰、淡海志賀高穴穗宮天皇多遅麻、磐余稚櫻宮天皇五十琴宿祢、そして、履中天皇は既にあった稚櫻宮天皇妃の日向泉長姫の兄弟として即位し、難波高津宮は恐らく並立していて、『舊事本紀』仁徳「天皇大別崩」と大別が師木天皇意乎巳を退位させ、瑞歯別妃の従弟の麦入へと繋がったと思われる。

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