2022年8月24日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』応神天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は「三十年春正月辛丑朔戊申天皇召大山守命大鷦鷯尊問之曰汝等者愛子耶對言甚愛也亦問之日長與少孰尤焉大山守命對言不逮于長子於是天皇有不悦之色時大鷦鷯尊預察天皇之色以對言長者多經寒暑既為成人更無悒矣少子者未知其成不是以少子甚憐之天皇大悅日汝言是合朕心是時天皇常有立菟道稚郎子為太子之情然欲和二皇子之意故發是問是以不悅太山守命之對言也即立菟道稚郎即日任大山守命令掌山川林野以大鷦鷯尊為太子輔之令知國事矣 以物部斤()葉連公為大臣四十一年春二月甲午朔戊申天皇崩于豐明宮時百一十歳 」、【三十年正月辛丑朔戊申に、天皇は大山守と大鷦鷯を呼んで尋ねた。「お前たちは、自分の子が可愛いか」二人の皇子は「とても可愛い」と答えた。天皇はまた「大きくなった子と、小さい子では、どちらが可愛いか」と尋ねた。大山守が「大きい子の方が良いです」答えた。それを聞いた天皇は喜ばない様子だった。大鷦鷯は天皇の心を察して「大きくなった方は、年を重ねて一人前になっているので、もう不安はありません。年若い方はそれが一人前になれるか、なれないかも分からないので、若い方が可愛い」と答えた。天皇は「お前の言葉は、本当に私の心にかなっている」と、とても喜んだ。このとき天皇は、常に菟道稚郎子を皇太子にしたいと思う心があった。そこで二人の皇子の心を知りたいと思っていた。そのためにこの問いをした。このため大山守の答えを喜ばなかった。そうして、菟道稚郎子を立てて日嗣とした。大山守を山川林野を掌る役目とし、大鷦鷯を、太子の補佐として国事を見させた。物部の印葉連を大臣とした。四十一年二月甲午朔戊申、天皇は豊明宮で崩じた。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「於是天皇問大山守命與大雀命詔汝等者敦愛兄子與弟子天皇所次発是問者宇遅能和紀郎子有令治天下之心也尓大山守命白愛兄子次大雀命知天皇所問賜之大御情而白兄子者既成人是無悒弟子者未成人是愛尓天皇詔佐耶岐阿藝之言如我所思即詔別者大山守命爲山海之政大雀命執食國之政以自()賜宇遅能和紀郎子所知天津日継也故大雀命者勿健()天皇之命也」とあり、ほぼ同じである。

この説話は『日本書紀』の四十年が正しい辛丑朔で、立太子に付随する説話なので、この説話は倭国のものと思われ、この頃は、倭国も265年に晋朝が『晋書』「行魏正朔」で晦日が朔でなく朔日が朔となり、晋に貢献する倭も天文学的朔を使ったと考えられる。

この、四十年と三十年の間違いは、応神天皇が複数人、若櫻宮の応神天皇と豊明宮の応神天皇が存在し、物部氏の応神天皇が天皇三十年目に皇位継承の混乱が有ったので三十年と記述された可能性があり、ある王の40年は長命で実権が既に継承済みで皇位継承に混乱は無さそうだが、30年なら混乱があってもおかしくない。

倭の王朝交代は、西暦309年に壹與王朝から異なる王朝が始まり、343年仁徳卅一年の「立大兄去來穂別尊爲皇太子」まで続いたようで、阿知使主は履中天皇即位前紀に記述されていて、その後の倭国王朝である。

この王は壹與の時、百濟にも晋に臣従させ、新羅が『三国史記』294年儒礼尼師今十一年「倭兵來攻長峯城不克」、295年十二年「王謂臣下曰倭人屢犯我城邑百姓不得安居」と倭に負け続け、300年基臨尼師今三年「與倭國交聘」と和平を結び、309年即位の新しい倭国王朝は312年訖解尼師今三年「倭國王遣使爲子求婚以阿飡急利女送之」と姻戚関係を結んだようだが、次の王朝阿知使主は344年三十五年「倭國遣使請婚辭以女旣出嫁」と姻戚関係を拒否され、「倭王移書絶交」と絶交し、397年阿莘王六年「王與倭國結好」のように、百濟と親密な関係となったようだ。

卅七年春二月戊午朔の「遣阿知使主都加使主於呉令求縫工女」、同じ阿知使主の「廿年秋九月倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」、「四一年阿知使主等自呉至筑紫」の説話は343年即位の阿知使主の廿年362年、卅七年379年、四一年383年の説話で、履中天皇即位前紀の「圍太子宮時平群木菟宿禰物部大前宿禰漢直祖阿知使主」と400年の説話に阿知使主が登場する。

また、四十一年春二月甲午朔戊申「天皇崩于明宮」も間違った朔で、神武天皇が東征で安芸まで間違いの朔だったことから、日向襲津彦の資料の可能性が有る。

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