2022年8月15日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神功皇后類書4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故建内宿祢命率其太子爲將禊而經歴淡海及若狭國之時於高志前之角鹿造假宮而(坐尓)坐其地伊奢沙和氣大神之命見於夜夢云以吾名欲易御子之御名尓言祷白之恐随命易奉亦其神詔明日之旦應幸於濵獻易名之幣故其旦幸行()濵之時毀鼻入鹿魚既依一浦於是御子令白于神云於我給御食之魚故亦稱其御名號御食津大神故於今謂氣比大神也亦毀()鼻入鹿魚之其()血臰故号其浦謂血浦今謂都奴賀也於是還上坐時其御祖息長帯日賣命醸待酒以獻尓其御祖御歌曰許能美岐波和賀美岐那良受久志能加美登許余迩伊麻須伊波多々須々久那美迦微能加牟菩岐本岐玖琉本斯登余本岐岐母登本斯麻都理許斯美岐叙阿佐受袁勢佐々如此歌而獻大御酒尓建内宿祢命爲御子荅歌曰許能美岐袁迦美祁牟比登波曽能都豆美宇須迩多弖々宇多比都々迦美祁禮迦母麻比都々迦美祁礼加母許能美岐能美岐能阿夜迩宇()陀怒斯佐佐此者酒樂之歌也凢帯中津日子天皇之御年伍拾貮歳壬戌年六月十一日崩也御陵在河内恵賀之長江也皇后御年一百歳崩葬于狭城楯列陵也」、【それで、建内宿禰は、その太子を率いて、禊をしようとして、淡海及び若狹國をへて、高志の前の角鹿に假宮を造っていた。そこにいた伊奢沙和氣大神が、夜の夢にでてきて「私の名を子の名に替えて欲しい。」と言った。そこで「畏れ多い事、命のように替えましょう。」と喜んで言ったら、亦、その神は「明日の早朝、濱に出なさい。名を変えた幣をやろう。」と言った。それで、早朝濱に行った時、鼻を傷めた入鹿魚が、既に一浦によりかかっていた。それで神子は、神に、「我は食用の魚が欲しい。」と言った。それで、亦、その名を稱えて、御食津大神と名付けた。それで、今は氣比大神という。亦、その入鹿魚の鼻が血生臭かった。それで、その浦を血浦と言った。今は都奴賀という。それで還る時、その母の息長帶日賣は、待酒を釀もして飲んだ。そこでその親は、歌を詠んだ()。このように歌って大酒を飲んだ。そこで建内宿禰が、神子の爲に答歌を歌った()。これは酒樂の歌だ。帶中津日子天皇の年は、伍拾貳歳だった。壬戌の年の六月十一日に崩じた。陵は河内の惠賀の長江に在る。皇后は年齢百歳で崩じた。狹城の楯列の陵に葬った。】と訳した。

この説話は敦賀の地名説話と応神天皇の太子の命名説話であるが、敦賀は垂仁天皇三年に天日槍が来日していて、既に地名は存在し、また、遠津臣から息長氏が派生したと以前述べたが、御食津大神、これは三国にいる大国の神、大国にいる神は大氣都比賣で、若沙那賣神を生み、三国若狭の神女(みな)の女神で御食津大神の名に相応しい。

また、『古事記』「娶意富夜麻登玖迩阿礼比賣命生御子・・・日子刺肩別」「日子刺肩別命者・・・角鹿海直之祖也」と遠津氏・息長氏の氏を引き継いだ和知都美の娘の意富夜麻登玖迩阿礼比賣の子が角鹿海直の祖の日子刺肩別で、敦賀命名説話に相応しく、葛城氏の息長帯姫の起源にもよく合う。

そして、建内宿禰が太子に名を付けるのだから、当然、建内宿禰の子か孫で、伊奢沙和氣大神の名と交換したのだから、『古事記』「葛城之曽都毗古之女石之日賣命生御子大江之伊耶本和氣命」の伊耶本和氣以外考えられず、応神朝と仁徳朝は並行してあったと証明したように、伊耶本和氣は応神天皇の子、すなわち、この応神天皇は襲津彦で命名者の武内宿祢は祖父である。

『古事記』の神武天皇は応神天皇と述べてきたが、『古事記』の神武天皇は若御毛沼であったが、この名は若狭の三国配下の毛の沼の人物で、御食の神を祀る人物、伊奢沙和氣と名を交換して伊耶本和氣、御毛沼と名を交換して御食津大神である。

そして、大倭根子の皇子の日子刺肩別の子孫で角鹿海直と思われる稚帯彦、396年即位の応神天皇の母の神功皇后は角鹿の笥飯宮にいて、建内宿禰はそれに伴って子が仲国王になり、豊浦から東征して応神天皇が皇位を獲得した説話になったと考えられる。

建内宿禰の子と思われる大碓は『古事記』「大碓命守君大田君嶋田君之祖」と大田君の祖で『日本書紀』「日向髪長大田根生日向襲津彦皇子」と「狗奴國」の媛と思われる大田根が日向襲津彦を生み日向襲津彦は仲国将軍となって譽田別を生むが、譽田を名乗っているのだから品陀眞若の娘の中日賣が母の可能性が高く、「根鳥皇子是大田君之始祖也」と仲国将軍根鳥と大国将軍大雀が生まれたと考えられ、尾張朝廷大中彦を継承したようだ。

そして、陵墓が2つあるように、長江は長江襲津彦の母で362年崩、楯列は「志賀高穴穗宮」天皇の「倭國狹城盾列」と同じで野洲近辺の尾綱真若刀婢の陵墓で269年崩と考えられる。

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