『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「是建内宿祢大臣白恐我天皇猶阿蘇婆勢其大御琴尓稍取依其御琴而那麻(摩)那摩迩控坐故未幾久而不聞御琴之音即舉火見者既崩」、【そこで建内宿禰大臣が、「恐しい、天皇、もっとその大琴を弾いてください。」と言った。それですこし琴を取り依せて、しぶしぶ弾いていた。それで、幾ばくも無く、琴の音が聞こえなくなった。それで火を掲げてみると、既に崩じていた。】と訳した。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「九年春二月癸卯朔丁未武内大臣勸近天皇親后自彈琴託問皇后不肯託誨于時託云皇后妊胎皇子可得寶國云々武内大臣慇進天皇祇令彈琴祈請神名于時日暮將燈琴音絕聲乃舉火見之天皇勿有痛身而明日崩于時年五十二即知不信神教而中賊矢早崩之矣于時皇后大臣匿天皇之哀不無知天下則皇后詔大臣及中臣賊津連大三輪太友主君物部膽咋連大伴武以連物部公遅麻連曰命今天下未知天皇之崩若百姓知之有懈怠者乎則命四大夫領百寮令守宮中竊收天皇屍付武内宿祢以從海路還於穴門而殯于豐浦宮
無火殯歛甲子武内宿祢自穴門還之後奏於皇后是年由新羅國(イ+殳)不得葬天皇矣后生皇子四柱麛坂皇子熊坂皇子舉屋別皇子譽田別尊」、【九年の春二月五日、武内大臣が天皇のそばに控え、皇后のために琴を弾くことを頼んだ。皇后が神がかりして神に聞いても、教えは得られなかった。そして神がかりして「皇后がみごもっている皇子は、宝の国を得るだろう。云々」武内大臣は、天皇につつしんで琴を弾くように懇ろにすすめ、その神の名を求め願った。それで、日が暮れて、明かりを灯そうとしたとき、琴の音が聞こえなくなった。そこで、火をかかげて見ると、天皇は体を傷めて、翌日に崩じた。五十二歳だった。それで、神のお告げを信じなかったので、賊の矢にあたって早死にしたようだ。皇后と大臣は、天皇の喪を隠して、天下に知らせなかった。そして、皇后は
大臣と中臣烏賊津連、大三輪大友主君、物部胆咋連、大伴武以連、物部多遅麻連に「いま、天下の人は天皇が崩じたことを知らない。もし人民が知ったら、気のゆるむ者がいるかもしれない」と詔勅し、そこで、四人の大夫に命じて、官僚を率いて宮中を守らせた。ひそかに天皇の遺骸を収めて、武内宿祢に任せ、海路で穴門に移した。そして、豊浦宮で、灯火を焚かずに仮葬した。甲子の日、武内宿祢は穴門から帰って、皇后に報告した。この年は新羅国の役があって、天皇の葬儀は行われなかった。天皇は、后妃との間に四人の皇子をお生みになった。麛坂皇子、忍熊皇子、誉屋別皇子、誉田別尊である。】と訳した。
この説話は、建内宿祢大臣が天皇を殺害していて、師木朝廷の皇位を奪取した息長帯姫は屋主忍男武雄心の子の息長宿祢と葛城之高額比賣の娘で建内宿祢の姻戚と考えられ、大帯彦の建内宿祢がこの功績で仲国の将軍の地位を手に入れた説話と考えられる。
すなわち、神功皇后が皇位を奪取する時、大国将軍の建内宿祢が活躍して、仲国将軍の地位を得た説話と考えられ、実際の仲国王就任は神功皇后「五十五年百濟肖古王薨」が375年に当たるので、この神功皇后元年は321年となり、この時に豊国を含む仲国王になったと考えられる。
322年「搆造宮室」と宮殿を造り、「聖帝」・日後の王、すなわち、高千穂宮の帝の後継者になり、大帯彦は武諸隅が出雲の神寶を得て、屋主忍男武雄心が淡海王になった時、山代に残ったのが大国将軍大帯彦の比古布都押之信の子の建内宿祢と考えられ、住む場所が変わると代替えとなる。
そして、穴門豊浦宮天皇は恐らく拘奴國王で安芸の仲国王の中臣烏賊津連と大帯彦が京都郡以南に後退させ、安芸王の中臣烏賊津連は、仲帯彦に帰属したと考えられ、烏賊津は418年に「勅一舎人中臣烏賦津使主」と記述され、平群天皇の臣下の中臣連はこれ以降と考えられ、垂仁朝の5太夫の大鹿嶋は大国の鹿嶋、景行朝の直入中臣神、すなわち、仲国王中使主で、安康朝の「坂本臣祖根使主」と使主から雄略朝の「根使主之後爲坂本臣」の臣、「弟市鹿文賜於火國造」その子孫の「漢直祖阿知使主」が「漢使主等賜姓曰直」すなわち日国造・日臣で雄略朝の扶桑国の官位で、前の日臣(おそらく高千穂朝の王)が道臣と変った。
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