2022年8月12日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神功皇后類書3

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故其政未竟之間其懐妊臨産即爲鎮御腹取右()以纏御裳之腰而渡筑紫國其御子者阿禮坐故号其御子生地謂宇美也亦所纏其御裳之石者在筑紫國之伊計村也亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而御食其河邊之時當四月之上旬尓坐其河中之磯抜取御裳之糸以飯粒爲餌釣其河之年魚(其河名謂小河亦其磯名謂勝門比賣也)故四月上旬之時女人抜裳糸以粒爲餌釣年魚至于今不絶也於是息長帯日賣命於倭還上之時因()疑人心一具喪舩御子載其喪舩先令言漏之御子既崩如此上幸之時香坂王忍熊王聞而思將待取進出於斗賀野爲宇氣比獦也尓香坂王騰坐歴木而是大怒猪出掘其歴木即咋食其香坂王其弟忍熊王不畏其態興軍待向之時赴喪舩將攻空舩尓自其喪舩下軍相戰此時忍熊王以難波吉師部之祖伊佐比宿祢爲將軍太子御方者以丸迩臣之祖難波根子建振熊命爲將軍故追退到山代之時還立各不退相戰尓建振熊命権而令云息長帯日賣命者既崩故無可更戰即絶弓絃欺陽歸服於是其將軍既信詐弭弓蔵兵尓自頂髪中採出設弦(一名云宇佐由豆留)更張追撃故逃退逢坂對立戰尓追迫敗於沙々那美悉斬其軍於是其忍熊王與伊佐比宿祢共被追迫乗舩浮海歌曰伊奢阿藝布流玖麻賀伊多弖游波受波迩本杼理能阿布美能宇美迩迦豆岐勢那和即入海共死也」、【それで、その政がまだ終了しない間に、その胎児が産れそうになった。それで腹を鎭めようとして、石を取って裳の腰に纒とい、筑紫國に渡って、その子が生まれた。それで、その子が生れた地を宇美となづけた。亦、その裳に纒った石は、筑紫國の伊斗村に在る。亦、筑紫の末羅縣の玉島里について、その河の辺で食事をした時は、四月の上旬だった。そこでその河の礒で、裳の糸を拔き取って、飯粒を餌にして、河の年魚を釣った。河の名を小河という。亦、礒の名を勝門比賣という。それで、四月の上旬に、女が、裳の糸を拔き、飯粒を餌にして、年魚を釣ることは、今になっても絶えない。そこで息長帶日賣は、倭に還り上る時、人を疑ったため、喪船を一つ具えて、子をその喪船に載せて、先づ「神子は既に崩じた。」と言ひふらした。こうして上った時、香坂王と忍熊王が聞いて、待ち伏せて討とうと、斗賀野に進出して、狩りによる占いをした。そこで香坂王は、歴木に登ってみると、大きな猪が出てきて、歴木を堀って、香坂王を咋い殺した。弟の忍熊王が、それに恐れおののいて、軍勢を集めて待ちうけた時、喪船に赴いて空船を攻めた。そこで喪船から軍を下ろして互いに戦った。この時忍熊王は、難波の吉師部の祖の伊佐比宿禰を將軍として、太子のほうには、丸迩臣の祖の、難波根子建振熊を將軍とした。それで、追い散らして山代に到った時、還って軍を起こして、互いに退かず応戦した。そこで建振熊は、騙して「息長帶日賣は既に崩じた。それで、更に戦う必要が無い。」と言いふらして、弓絃を切って、服従するように見せた。その將軍は、詐りを信じて、弓を弭して兵器をしまった。そこで結った髮の中から、巻き付けた弦を取り出して、弓に張って追撃した。それで、逢坂に退いて逃げ、また立ち向かって戦った。そこで追い迫って沙沙那美で敗り、のこらずその軍勢を斬った。そこで忍熊王と伊佐比宿禰は、共に追い迫まられて、船に乘りて海に浮かんで歌って()、海に入って共に死んだ。】と訳した。

この筑紫での説話は当然卑弥呼には子がいないので、壹與・市鹿文の説話で、三年春正月丙戌朔戊子「立譽田別皇子爲皇太子」の立太子は、西暦247年から3年後249年に即位した「火國造」の壹與を記述していると思われる。

『三國志』正始「八年・・・卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定」と卑弥呼が247年に死亡し、「倭國亂」で退位させられた熊襲梟帥の恐らく曽孫の市乾鹿文に婿入りして熊襲梟帥を襲名した卑弥呼の男弟王の子が卑弥呼を継いだと思われるが、国は纏まらず、市乾鹿文の妹の市鹿文13歳が即位し、市鹿文は倭奴国王熊襲梟帥を襲名した宗家の娘である。

壹與は287年新羅儒礼尼師今四年四月「倭人襲一禮部縱火燒之」と韓地が不安定になり、新羅が279年から味鄒尼師今や儒礼尼師今が晋に「遣使獻方物」、281年から百濟も古尓王、責稽王が「貢方物」と晋朝に援助を求め、それに対して、倭は、太康10年289年「東夷絕遠三十餘國」と晋と融和して、300年基臨尼師今三年に「與倭國交聘」と和平を結んだ。 

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