2022年8月17日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神功皇后類書4『三國志』魏書の暦

  『三國志』は魏書に「景初元年・・・三月定歷改年爲孟夏四月」、注に「魏書當以建丑之月爲正月考之羣藝厥義章矣其改青龍五年三月爲景初元年四月」、魏書三十烏丸鮮卑東夷傳第三十東夷倭人に「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼・・・爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授・・・正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王・・・其四年倭王復遣使・・・其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗邪國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等・・・卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」、さらに、『魏書·明帝紀』に「景初元年十二月壬子冬至始祀」「二年」「冬十一月」「閏月」「十二月乙丑帝寢疾不豫辛巳立皇后・・・三年春正月丁亥即日帝崩于嘉福殿時年三十六」、注臣松之桉に「魏武以建安九年八月定鄴・・・明帝應以十年生計至此年正月整三十四年耳時改正朔以故年十二月爲今年正月可彊名三十五年不得三十六也」、『魏書·三少帝紀齊王』に「・・・景初三年正月丁亥朔帝甚病乃立為皇太子是日即皇帝位・・・十二月詔曰烈祖明皇帝以正月棄背天下臣子永惟忌日之哀其復用夏正雖違先帝通三統之義斯亦禮制所由變改也又夏正於數為得天正其以建寅之月為正始元年正月以建丑月為後十二月」 、注帝《集》に「載帝自敘始生禎祥曰・・・其辭曰惟正始三年九月辛未朔二十五日乙未直成予生于時也」、吳書·吳主傳に孫權の太元二年二月に「大赦改元爲神鳳皇后潘氏薨・・・夏四月權薨 」、三嗣主傳第三に孫亮太元元年夏「亮母潘氏立爲皇后・・・太子即尊號大赦改是歲於魏嘉平四年也」とある。

『日本書紀』に神功皇后「卅九年是年也大歳己未・・・明帝景初三年六月・・・」と1年違いで記述されている原因を探ってみよう。

明帝は237年青龍五年に本来12月の丑月を1月に変更し、238年景初元年の冬至が本来11月を12月と記述され、また、明帝崩が「景初三年正月丁亥」と記述されているが、丁亥朔は閏月が238年11月なら死亡日は239年1月30日で、239年景初三年の12月に「建寅之月為正始元年正月以建丑月為後十二月」と齊王が元に戻し、251年太元元年が嘉平四年なので、248年が嘉平元年、239年が正始元年、注の正始三年九月辛未朔は241年で天文学的日干支である。

すなわち、『東夷傳』は元に戻った暦で記述されるが、卑弥呼の詔書には建丑月が1月の景初三年()丑月と署名されていて、倭国は景初二年を三年と理解し、『三国志』の齊王の原資料にも恐らく「景初三年正月丁亥晦」と記述され、陳寿は景初三年の存在を理解し、日本は新帝齊王元年が正始で後の丑月を理解せず、『日本書紀』に239年景初三年、240年正始元年、243年正始四年と1年ズレて記述したと思われる。

ところが、魏朝では、齊王が239年景初三年12月に暦の「正始二年建丑月一月」を「正始元年後十二月」と換えて景初三年を正始元年としたが、司馬懿との二重権力で混乱して、2月1日丁亥(明帝歴3月1)を二重にずらして朔を付加したと考えられ、実際の死亡は238年景初二年の後の丑月晦日だった。

中国では、始皇帝二十六年「今年得寶鼎其冬辛巳朔旦冬至」と冬至が朔日だと縁起が良いと暦を変えるなど、農耕の為の暦が政治的に変更されたようで、暦を重要視していない。

実際は正始元年は殆ど使用されず、景初三年が使用され、景初二年記事の後に青龍三年記事を記述した後、「三年春正月丁亥太尉宣王還至河內・・・癸丑葬高平陵」と、景初三年一月廿七日に埋葬したと記述され、元々は景初三年一月晦日死亡で景初三年二月廿六日に埋葬が景初二年後の十二月晦日死亡景初三年一月廿六日埋葬、景初三年一月朔日死亡景初三年一月廿七日埋葬、正始元年一月朔日死亡正始元年一月廿七日埋葬と改定された。

そして、齊王の記事は「景初三年正月丁亥朔・・・二月・・・丁丑詔曰三月・・・夏六月・・・秋七月・・・八月・・・冬十月・・・十二月・・・”其以建寅之月為正始元年正月,以建丑月為後十二月”・・・正始元年春二月乙丑正始元年春二月乙丑・・・夏四月・・・秋七月・・・八月」と記述は続き、景初三年は12月まで、正始元年も続き、景初三年は確かに239年・240年当時には存在した。

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