『七支刀』の銘文は「泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世」とあり、■は不明な文字である。
『七支刀』記事は『日本書紀』に神功皇后「五十二年秋九月丁卯朔丙子久氐等從千熊長彦詣之則獻七枝刀一口」と記述され、この日干支は252年8月30日、九州の暦で九州の記事を当て嵌めた記述と思われ、神功皇后紀は百濟関係の記事が多く記述されるが、紀年が全て違っている。
255年神功55年の「百濟肖古王薨」は『三國史記』375年近肖古王「三十年・・・冬十一月王薨」、神功56年「五十六年百濟王子貴須立爲王」は375年であるが、十一月即位なので、日本では翌年の記録となり、神功64年「六十四年百濟國貴須王薨王子枕流王立爲王」は384年近仇首王一云諱須「十年・・・夏四月王薨」、 神功65年「 六十五年百濟枕流王薨王子阿花年少叔父辰斯奪立爲王」は385年枕流王「二年・・・冬十一月王薨」で、これは、321年即位の王が存在した考えられる。
その321年即位の王の記録が七支刀の記録で、372年にその王に七支刀が献上されたと考えられ、おそらく、石上神宮に奉納しているので、五十琴宿祢の磐余若櫻宮天皇の可能性が高い。
七支刀は百濟王から倭王に送った刀で、それが、倭王の宗主国でもある朝廷に献上されたと考えられ、この時の倭王は応神20年「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」、この応神20年は阿知王20年と思われ362年で、倭王が臣従のしるしとして372年に「七枝刀一口七子鏡一面及種種重寶」を献上したと考えられる。
『二中歴』に「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干」と「継体」年号を517年に開始した王朝が、それより569年前、前53年から年号が始まり、それから丗九年間は元号が無く干支のみ記述したが、それ以降元号を記録したと述べていて、景行天皇元年「太子即天皇位因以改元」と改元して元号があったことを示す。
中国にも朝鮮にも当てはまる元号が無く、元号を持っていたと『二中暦』・『日本書紀』が記述しているのだから、368年を元年としたその政権は、おそらく、元号を辰→日本→秦と続け、葛城・平群・巨勢朝廷が建元して中断していたと考えられ、七支刀の「年号泰■」は日本に続く秦国の元号だった可能性が高い。
贈り物に宗主国を差し置いて第三国の中国の元号を使うのはナンセンス、送る国の元号を刻むのが礼儀で、百濟国王肖古王の世子貴須王に聖(人)の音(泣き声)の孫阿花王が生まれたので倭王旨(阿知)のために造らせたと銘文して贈ったと考えられる。
日本国は前28年「傳聞日本國有聖皇」、200年「東有神國謂日本」、246年「東方有日本貴國」、297年「高麗王教日本國也時太子菟道稚郎子讀其表怒之責高麗之使」と前28年には日本国と呼ばれ、200年には神国(秦国)と呼ばれ、297年は恐らく「直支王薨」の後に記述されているので423年で、日本と上表文に記述されて怒ったのではないだろうか。
七支刀献上の372年の丙午の日は2月12日・3月13日・5月14日・7月16日・9月17日・11月17日があり、閏月があるので、1月ズレる可能性があり、さらに、百濟は晦日を朔としていて、1日ズレる可能性があり、「十■月十六日」なので、11月17日とおもわれる。
内容も、貴須王の子の枕流王が短命で、子の阿花王が年少だったと記述され、372年生まれなら 枕流王死亡時14歳なので、枕流王即位時は13歳で太子にはなれたが、即位適正年令20歳に満たず、枕流王即位時には12歳未満で元々太子に成れず、太子は辰斯王がなっていたはずで、王位を奪う必要が無く、14歳の阿花王には荷が重いと混乱が発生して、辰斯王が政権を奪ったと考えると理に適う。
同様の紀年のズレが、百濟関係の記事の285年応神天皇十六年「百濟阿花王薨」は405年「阿莘王或云阿芳・・・十四年・・・秋九月王薨」と405年が16年と390年に即位した王が存在し、294年応神天皇二五年「百濟直支王薨」は420年「腆支王或云直支・・・十六年春三月王薨」と420年が16年の396年に即位した王が存在したことを示す。
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