2022年8月3日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仲哀天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「二月幸角鹿即行輿宮而居之是謂笥飯宮三月巡狩南國討熊襲叛七月皇居泊坐豐浦津而后得如意珠於海中輿宮室于穴門而居之是謂穴門豐浦宮八年春正月天皇幸築紫討熊襲之議矣時或神託皇后誨日天皇何憂熊襲之不眤此國膂完之空國也西有寶國謂新羅國也若能祭我者必令自服云々而天皇西称無國不信神教誨猶親撃熊襲中賊矢也」、【二月、角鹿に行き、行宮を建てて住み、これを笥飯宮という。三月、南の国を巡視し、熊襲の叛乱を討とうとした。七月、皇后は豊浦津に泊まった後、皇后は如意珠を海中から得た。九月、宮室を穴門にたてて住んだ。これを、穴門豊浦宮という。八年の春正月、天皇は筑紫に行き、熊襲を討とうと諮問した。このとき、ある神が皇后に託して神託をして「天皇は、どうして熊襲が従わないことを憂えるのか。そこは荒れて痩せた地だ。しかし西には宝の国があり、新羅という。もし、よく私を祀るならば、きっとその国はおのずから服従するだろう。云々」ところが天皇は西には国は無いと言った。神の教を信じず、なおみずから熊襲を討って、賊の矢で傷を負った。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「其大后息長帯日賣命者當時歸神故天皇坐筑紫之訶志比宮將撃熊曽國之時天皇控御琴而建内宿祢大臣居於沙庭請神之命於是太后歸神言教覺詔者西方有國金銀爲本日()之炎耀種々珍寶多在其國吾今歸賜其國尓天皇荅白登高地見西方者不見國土唯有大海謂爲詐神而押退御琴不控黙坐尓其神大忿詔凡茲天下者汝非應和()國汝者向一道於」、【その大后の息長帶日賣は、その時、神の力をかりた。それで、天皇が筑紫の訶志比宮にいて、熊曾國を撃とうとした時、天皇が琴を弾いて、建内宿禰大臣が神託を聞こうと、神命を求めた。そこで大后が神と一体になって、神言を教えて「西の方に國が有り。金銀をはじめ、輝く種ゝの珍寶が多く其の國に在る。すぐに其の國を帰属させなさい。」と宣託した。そこで天皇は、「高い場所に登って西の方を見たら、國土が見えない。唯大海だけが有る。」と答えて、嘘を言う神と言って琴を押し除けて弾かずに、默って坐った。そこでその神は、とても怒って「だいたいがこの天下は、お前が統治する国ではない。おまえは死出の道に向かえ。」と言った。】と訳した。

この天皇の記事で正しい朔の記事は、元年春正月庚寅朔庚子「太子即位」、二年春正月甲寅朔甲子「立氣長足姫尊爲皇后」、三月癸丑朔丁卯「至紀伊國而居于徳勒津宮」、夏六月辛巳朔庚寅「泊于豐浦津」、秋七月辛亥朔乙卯「皇后泊豐浦津」、八年春正月己卯朔壬午「幸筑紫」である。

131年に皇太子五百木之入日子が師木天皇に即位して270年まで襲名して皇位にあったと思われ、膽咋宿祢の娘の清媛・五十琴姫・大中姫は纏向朝廷の姫と思われ、192年に五十琴彦が天皇になり、息長帯姫に滅ぼされ、五十琴宿祢が磐余稚櫻宮で即位したようだ。

そして、息長帯姫が住んで、君子国が有った三国の敦賀にいる大倭王は『後漢書』「桓靈間倭國大亂」で、『日本書紀』「熊襲叛之不朝貢」なので、『後漢書』「其大倭王居邪馬台國」と熊襲の乱平定に筑紫の香椎に向かっている。

それに対して、正しくない朔記事は、元年九月丙戌朔「尊母皇后曰皇太后」、二年十一月乙酉朔「詔群臣曰朕未逮于弱冠而父王既崩之」、二月癸未朔戊子「幸角鹿即興行宮而居之是謂笥飯宮」は「越國貢白鳥四隻」とあるように、「詔御諸別王曰汝父彦狹嶋王不得向任所而早薨」の御諸別の都督即位の説話と考えられ、彦狹嶋の兄弟は淡海天皇で、自身は『舊事本紀』「能等國造・・・彦狹嶋命定賜國造」と能登王でもあり、角鹿行宮も彦狹嶋の記録の可能性があり、短命な彦狹嶋が倭建、中国周朝の暦を造った「羲和之國」が「東山道十五國」にあった可能性がある。

八年九月乙亥朔己卯「詔群臣以議討熊襲」と熊襲討伐を止めて新羅國へ侵略する計画の記述だが、249年、壹與元年、沾解尼師今三年夏四月「倭人殺舒弗邯于老」と新羅侵略は倭国が行っており、仲哀天皇は新羅の場所を知っているので、敦賀の西方は新羅だが、筑紫で西方を見ると新羅は見えない。

大倭王は垂仁天皇三年前27年に『日本書紀』「僕新羅國主之子也」と国主の子が朝貢していて、新羅は秦国大倭王の配下で、国主の姓を持ち、新羅を知らないはずもないし、攻撃する必要もないが、倭国は元燕配下、馬韓も元燕配下の扶余人が支配し、辰韓と辰国日本は漢と対峙していた。

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