『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「訖尓驚懼而坐殯宮更取國之大奴佐而種々求生剥逆剥阿離溝埋屎戸上通(下通)婚馬婚牛婚鶏婚犬婚之罪類爲國之大祓而亦建内宿祢居於沙庭請神之命於是教覺之状具如先日凢此國者坐汝命御腹之御子所知國者也尓建内宿祢白恐我大神坐其神腹之御子何子欤荅詔男子也尓具請之今如此言教之大神者欲知其御名即荅詔是天照大神之御心者亦底箇男中箇男上箇男三柱大神者也(此時其三柱大神之御名者顯也)今寔思求其國者於天神地祇亦山神及河海之諸神悉奉幣帛我之御魂坐于舩上而真木灰納瓠亦箸及比羅傳多作皆々散浮大海以可度故備如教覺憗(整)軍雙舩度幸之時海原之魚不問大小悉負御舩而渡尓順風大起御舩從浪故其御舩之波瀾押騰新羅之國既到半國於是其國王畏(惶)奏言自今以後随天皇命而爲御馬甘(耳)毎年雙舩不乾舩腹不乾柁檝共與天地無退仕奉故是以新羅國者定御馬甘百済國者定渡屯家尓以其御杖衝立新羅國主之門即以墨江大神之荒御魂爲國守神而祭鎮還渡也」、【ここで、驚き怯えて、殯宮に居て、更に國の大串に付けた幣を取って生剥、逆剥、田の畔を崩し、溝を埋、糞を撒き散らし、親子で交わり、馬や牛や鷄を犯すなどの罪などをいろいろ探し求めて、國の大祓をして、亦、建内宿禰が清めた場所に居て、神の言葉をきいた。ここで教へ諭されたことを、「凡そこの国は、お前の命を宿す腹にいる子が治める国だ。」と先日のようにさとした。そこで建内宿禰は、「恐れおおいこと、私の大神よ、その神々しく腹にいる子は誰だ。」と言うと、「男子だ。」と答えた。そこで「今このように教えて頂いた大神の名を教えてほしい。」と願うと、「これは天照大神の心だ。亦、底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神だ。この時にその三柱の大神の名は明らかとなった。今、本当ににその國を求めようと思うなら、天神地祇、亦、山神及び河海の諸々の神、全てに幣帛を供え、私の魂を船の上に乗せて、眞木の灰を瓠に納め、亦、箸及びお供えをたくさん作って、其々を大海に散らし浮かべて渡るのだ。」と答えた。それで、すべて教へ諭されたようにして、軍勢を整へ船を並べて渡った時、海原の魚が、大小を問はず、ことごとく船を背に乗せ渡った。ここで追い風が強く吹き、船は浪に乗って行った。それで、その船の大小の波が、新羅の國に押し上げて、既に國の半ばについた。これにその國王は、恐れおののいて「今以後は、天皇の命のままに、馬の餌として、年毎に船を並べて、船腹や棹・櫂が乾くこと無く、天地のと共に、止むことなく仕へましょう。」と奏上した。それでこのため新羅國は御馬甘と決め、百濟國は外交の屯家と定めた。そこでその杖を、新羅の國主の門につき立てて、墨江大神の荒魂を、國を守る神として祭り鎭めて帰還した。】と訳した。
ここでの新羅侵攻は249年の新羅侵攻、沾解尼師今三年「夏四月倭人殺舒弗邯于老」だが、内容は前28年『日本書紀』垂仁天皇二年「任那人蘇那曷叱智・・・故號其國謂彌摩那國其是之縁也於是阿羅斯等以所給赤絹藏于己國郡府新羅人聞之起兵至之皆奪其赤絹是二國相怨之始也」と記述され、これ以前、おそらく新羅建国の前57年に御門の杖門番と秦韓・新羅の独立を承認して税として御馬甘を徴収し、新羅の「意富加羅國」の地を彌摩那と呼んだ事をここで記述したと思われる。
さらに、反目する百濟に前18年自治を認めて独立したが、百濟には倭奴国が援助して、「于斯岐阿利叱智于岐傳聞日本國有聖皇」と淡海朝秦の影響下の新羅といさかいが絶えなかったと記述し、その説話を神功皇后の説話に挿入したと考えられる。
そして、その詳細が神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年の「新羅王常以八十船之調貢于日本國其是之縁也於是高麗百濟二國王聞新羅收圖籍降於日本國密令伺其軍勢則知不可勝自來于營外叩頭而款曰從今以後永稱西蕃不絶朝貢故因以定内官家」と同じ内容を記述し、もちろん、この内容は、倭奴国ではなく、日本国・秦国・淡海朝の説話と思われ、倭奴国とは高句麗も広開土王碑文に、また、百濟も新羅も『三国史記』に交戦の記事が絶えず記述される。
秦韓建国時の前57年にあった秦・辰は少なくとも前109年『漢書』「辰國欲上書見天子又雍閼弗通元封二年」から続いた国で、秦・辰が辰韓か馬韓なら、『三國史記』の建国が前109年以前にすればよく、秦・辰は辰韓・馬韓以外で、辰韓建国時にも辰国はあって、「辰人謂瓠爲朴」と新羅初代の王に賜姓しており、中国の秦朝は前206年に滅亡していて、『日本書紀』・『古事記』には新羅・百濟の朝貢記事がある。
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