2022年8月22日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』応神天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は「諱譽田皇太子尊者足仲彦天皇第四皇子也母氣長足姬尊則開化天皇五世孫也天皇以皇后討新羅之年歳次庚辰冬十二月生築紫之蚊田幼而聰達玄監深達動容進止聖表有契矣皇太后攝政三年立為皇太子時年三歳初天皇在孕而天神地祇授三韓矣既産之完生腕上其状如鞆是肖皇太后爲雄裝之負鞆故称名曰譽田尊攝政六十九年夏四月皇太后崩元年正月丁亥朔皇太子尊即天皇位都輕嶋地謂豐明宮二年春三月庚戌朔壬子立仲姬命為皇后誕生三兒兒荒田皇子次大鷦鷯尊次根鳥皇子也先是天皇以皇后姉亮城入姬命為妃生四兒額田大中彦皇子次大山守皇子去來真稚皇子次大原皇子也次妃皇后弟々姬生三兒兒阿倍皇女次淡路三原皇女次菟野皇女次妃物部多遅麻大連女香室媛生三皇子兒菟道稚郎子皇子尊次矢田皇女仁徳妃次雌鳥皇女次妃香室媛弟小甂媛生菟道稚郎姬皇子次妃河泒仲彦女弟媛生稚野毛二泒皇子次妃櫻井田部連男鉏妹糸媛生隼総別皇子次妃日向泉長媛生大葉枝皇子次小葉枝皇凡天皇男女合二十王也」、【誉田皇太子は、足仲彦天皇の第四皇子で母は気長足姫、すなわち開化天皇の五世孫だ。天皇は、母の皇后が新羅を討った年、庚辰年の冬十二月に、筑紫の蚊田でお生まれ幼くして聡明で、物事を遠くまで見通した。立居振る舞いに聖のきざしがあった。皇太后の摂政三年に、皇太子となり三歳だった。皇太后が妊娠中に、天神地祇は三韓を授け生まれたとき、腕が上に盛り上がっていた。その形がちょうど鞆のようであった。これは、皇太后が男装して、鞆をつけられたのに似た。そのため名を誉田尊という。摂政六十九年夏四月、皇太后が薨じた。治世元年丁亥朔、皇太子は即位し軽嶋に都を造り、豊明宮といった。二年三月庚戌朔壬子に、仲姫命を皇后とした。以下略】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「品陀和氣命坐軽嶋之明宮治天下也此天皇娶品陀真若王之女三柱女王一名高木之入日賣命次中日賣命次弟日賣命此女王等之父品它王真若王者五百木之入日子命娶尾張連之祖建伊那陀宿祢之女志理都紀斗賣生子者也故高木之入日賣之子額田大中日子命次大山守命次伊奢之真若命次妹大原郎女次高目郎女五柱中日賣命之御子木之荒田郎女次大雀命次根鳥命三柱弟日賣命之御子阿信()郎女次阿貝知能三腹郎女次木之兎野郎女次三野郎女五柱又娶丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢河枝比賣生御子宇遅能和紀郎子次妹八田若郎女次女鳥王三柱又娶其矢河枝比賣之弟袁那弁郎女生御子宇遅之若郎女一柱又娶咋俣長日子王之女息長真若中比賣生御子若沼毛二俣王一柱又娶桜井田部連之祖嶋垂根之女糸井比賣生御子速総別命一柱又娶日向之泉長比賣生御子大羽江王次小羽江王次幡日之若郎女三柱又娶迦具漏比賣生御子川原田郎女次玉郎女次忍坂大中比賣次登富志郎女次迦多遅王五柱又娶葛城之野伊呂賣此生御子伊奢能麻和迦王一柱此天皇之御子等并廿六王男王十一女王十五此中大雀命者治天下也」、【品陀和氣は輕島明宮で天下を治め、・・・以下略】とある。

前に、『古事記』の神武天皇御毛沼が名前を交換して伊耶本和氣を名乗ったと検証したが、御毛沼には弟の若御毛沼がいて、またの名が豊御毛沼で、これは、若狭の御毛沼が仲国の御毛沼になり、兄の御毛沼が伊耶本和氣になったのだが、「名前交換」説話が、もう一つあり、『日本書紀』「以爲取其鳥名各相易名子爲後葉之契也則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子取木菟名號大臣之子曰木菟宿禰」で、鷦鷯と木菟を取り換え、すなわち、もと木菟が本来天皇となるべき鷦鷯と取り換えて木菟が天皇になった。

『古事記』の神武天皇は日向→安芸→吉備→畿内と侵攻し、豊御毛沼が神武天皇に相応しく、すなわち、豊御毛沼が木菟で、名を交換して、大鷦鷯・御毛沼になり、伊耶本和氣履中天皇となった、若帯彦が若御毛沼なのだから、もと、伊奢沙和氣大神を祀っていたが、氣比大神を祀ることになった、すなわち、氣比大神を祀る妃を得たことを示し、誉田の妃の葛城の野伊呂賣、その子が伊奢能麻和迦だが、野伊呂賣は葛城国造荒田彦の娘の葛比売で伊奢能麻和迦が葛城襲津彦の可能性が高い。

また、応神天皇妃の迦具漏比賣の子が忍坂大中比賣ということは、「品陀天皇之御子若野毛二俣王娶其母弟・・・弟日賣真若比賣命生子・・・忍坂之大中津比賣」と、忍坂大中比賣の父が応神天皇かつ若野毛二俣王、杙俣長日子の子の「息長真若中比賣生御子若沼毛二俣王」で、応神天皇の母は多遅麻の淡海朝廷の姫となり、允恭天皇は多遅麻の子達の丸迩許碁登臣の子が天皇で、允恭天皇ではない平郡氏の男浅津間若子が丸迩臣の娘の 忍坂大中津比賣を妃にして穴穂が皇位を継いだ。

若沼毛二俣王が天皇の応神天皇は輕嶋明宮ではなく磐余若櫻宮天皇の応神天皇だから、履中天皇の兄弟が忍坂大中津比賣を妃にしていて、一王朝一世代で理に適う。

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