『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「一時天皇越幸近淡海國之時御立宇遅野上望葛野歌曰知婆能加豆怒袁美礼婆毛之知陀流夜迩彼(波)母美由久尓能富母美由故引坐木幡村之時麗美嬢子遇其道衢尓天皇問其嬢子曰汝者誰子荅白丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢阿(河)枝比賣天皇即詔其嬢子吾明日還幸之時入坐汝家故矢阿(河)枝比賣委曲語其父於是父荅曰是者天皇坐那理恐之我子仕奉云而嚴餝其家候待者明日入坐故獻大御饗之時其女矢阿(河)枝比賣命令取大御酒盞而獻於是天皇任令取其大御酒盞而御歌曰許能迦迩夜伊豆久能迦迩毛豆多布都奴賀能迦迩余許佐良布伊豆久迩伊多流伊知遅志麻美志麻迩斗岐美本杼理能迦豆伎伊岐豆岐志那陀由布佐佐那美遅袁須久酒(須)久登和賀伊麻勢婆夜許波多能美知迩阿波志斯袁登賣宇斯呂傳波袁陀弖呂迦母波那美波志比比斯那須伊知比韋能和迩佐能迩袁波都迩波波陀河可良氣美志波迩波迩具漏岐由恵美都具理能曽能那迦都迩袁加夫都久麻肥迩波阿弖受麻用賀岐許迩加岐多礼阿波志斯袁美那迦母賀登和賀美斯古良迦久母賀登阿賀美斯古迩宇多多氣陀迩牟迦比袁流迦母伊蘇比袁流迦母如此御合生御子宇遅能和紀郎子也」、【ある時、天皇は淡海国を越えて来て、宇遲野に立ち、葛野を望んで歌った(略)。それで、木幡村に着いた時に麗美な乙女と道で遇った。そこで、天皇が乙女に其の娘に「お前は誰の子だ」と問いかけると、「丸迩の比布禮能意富美の娘で、宮主矢河枝比賣だ。」と答えた。天皇はその乙女に「私は明日還る時、お前の家に行く」と言った。それで、矢河枝比賣、詳しく父に語った。そこで父が「天皇が来る。畏れ多い事だから、仕えなさい」と答えて、その家をおごさかに飾って待って、翌日来た。それで、饗宴を開いて、その娘の矢河枝比賣が、大盞を取ってふるまった。それで天皇は、その大盞を取りながら歌った(略)。この様に妃にして、生まれた子は、宇遲能和紀郎だ。】と訳した。
この宮主矢河枝比賣は「神倭主」で淡海朝の天皇を意味し、和珥臣の祖の日觸使主・比布禮大臣は『舊事本紀』「印葉連公多遅麻大連之子・・・姉物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女」と物部多遅麻のことである。
意富美は大神のことで、使主の国神に対する大神・天皇で多遅麻は淡海朝の天皇で、『日本書紀』を書いた王朝と異なる王朝のため、大臣を「意富美」と表記した。
矢河枝比賣を妃にした応神天皇は『古事記』「品陀和氣・・・天皇娶・・・迦具漏比賣生御子・・・次忍坂大中比賣」、「若野毛二俣王娶・・・弟日賣真若比賣命生・・・次忍坂之大中津比賣命」とあるように、若野毛二俣王で、大前宿祢が大臣で遠飛鳥宮の木梨輕太子に仕えたのだから、若櫻宮は2代前の五十琴宿祢が若野毛二俣王・応神天皇となる。
忍坂大中比賣は迦具漏比賣の子で、「若野毛二俣王娶其母弟百師木伊呂弁亦名弟日賣真若比賣」と迦具漏比賣のまたの名は弟日賣真若比賣、もう一人の迦具漏比賣の父大中日子の母は飯野真黒比賣で、その姉妹に「杙俣長日子王此王之子飯野真黒比賣命次息長真若中比賣次弟比賣」と息長真若中比賣と弟比賣(真若弟比賣)が存在し、若野毛二俣王の母は「咋俣長日子王之女息長真若中比賣生御子若沼毛二俣王」と息長真若中比賣である。
すなわち、咋俣長日子の娘達は、三姉妹ではなく、複数世代の姫で、真黒比賣は武諸遇の娘時姫で「娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王」と大中彦十市根を生み、咋俣長日子の娘の真若中比賣は「娶咋俣長日子王之女息長真若中比賣生御子若沼毛二俣王」と若沼毛二俣王を生み、麦入の子の石持が「公刑部垣連刑部造等祖」と忍坂は物部氏の領地で、忍坂大中比賣も物部氏の媛で、若沼毛二俣王の子が麦入である。
「物部五十琴宿祢連公膽咋宿祢之子・・・物部多遅麻大連女香兒媛為妻」と五十琴宿祢の妃が迦具漏比賣と似た名の香兒媛、「多遅麻大連女香室媛生三皇子兒菟道稚郎子皇子尊」と迦具漏比賣と似た名の香室媛が矢河枝比賣・宅媛・山無媛で若沼毛二俣王の妃となり、葛城氏に皇位を奪われたが、麦入が奪い返し、しかし、木梨輕太子と共に大前大臣が殺害され、皇位を失った。
そして、もう一人の応神天皇は品陀真若の娘を妃にしたやはり大臣の尾綱根で、品陀眞若王の娘の高木之入日賣を妃に子が額田大中日子・師木宮を継承する輕島宮天皇であり、さらに、もう一人の磐余若櫻宮天皇応神が葛城氏の伊耶本和気である。
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