『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「天皇聞看日向國諸縣君之女名髪長比賣其顔容麗美將使而喚上之時其太子大雀命見其嬢子泊于難波津而感(咸)其姿容之端正即誂造(告)建内宿祢大臣是自日向喚上之髪長比賣者請白天皇之大御所而令賜於吾尓建内宿祢大臣請大命者天皇即以髪長比賣賜于其御子所賜状者天皇聞者豊明之日於髪長比賣令握大御酒柏賜其太子尓御歌曰伊耶古杼母怒毗流都美迩比流都美迩和賀由久美知能迦具波斯波那多知婆那波木(本)都延波登理韋賀良斯友(支)豆延比波登理賀良斯美都具理能那迦都延能本都毛理阿加良袁登賣袁伊耶佐佐婆尓(余)良斯那又御歌曰美豆多麻流余佐美能伊氣能韋具比宇知賀佐斯良(祁)流斯良迩奴那波久理波閇祁久斯良迩和賀許許呂志劔(叙)伊夜袁許迩斯弖伊麻劔(叙)久夜斯岐如此歌而賜也故被賜其嬢子之後太子歌曰美知能斯理古波陀袁登賣袁迦微能碁登岐許延斯迦杼母阿比麻久良麻久又歌曰美知能斯理古波陀袁登賣波阿良蘇波受泥斯久袁斯劔(叙)母宇流波志美意母布又吉野之國主等瞻大雀命之所佩御刀歌曰本牟多能比能美古意富佐耶岐意富佐耶岐波加勢流多知母登都流藝須恵布由布由紀能須加良賀志多紀能佐夜夜夜又於吉野之白檮上作横臼而於其横臼醸大御酒獻其大御酒之時撃口鼓爲伎而歌曰加志能布迩余久須袁都久理余久須迩迦美斯意富美岐宇麻良尓岐許志母知袁勢麻呂賀知此歌者國主等獻大贄之時々恒至于今詠之歌者也此之御世定賜海部山部山守部伊勢部也亦作釼池亦」、【天皇は、日向國の諸縣君の娘の髮長比賣が容貌麗しいと聞いて、使いを送って呼び寄せたとき、太子の大雀は、その乙女が難波津に停泊しているところを見て、姿かたちが端正なのに惚れ込んで、建内宿禰大臣にたのんで「この日向から呼び寄せた髮長比賣を、天皇の御所に呼び、私にほしい。」と言った。そこで建内宿禰大臣が、天皇の指示を求めたら、天皇は髮長比賣を子に与えた。その様子は、天皇が饗宴で、髮長比賣に酒の器を持たせて、太子に与えた。そこで歌った(略)。又歌った(略)。この様に歌いながら与えた。それで、その乙女を与えた後、太子は歌った(略)。又、歌った(略)。又、吉野の國主達、大雀が帯びた刀を見て歌った(略)。又、吉野の切り株の上に横臼を作って、その横臼に酒を釀して、その酒を振舞った時、舌つづみで拍子をとって歌った(略)。この歌は、國主達が大贄を振舞う時に、いつも今に至るまで詠む歌だ。この天皇の時に、海部、山部、山守部、伊勢部を定めた。亦、劒池を作った。】と訳した。
神話は「日向襲之高千穗峯矣」と降臨し、豐玉姫と豊国の姫を天孫が妃にして、神武天皇は熊襲出身のはずが、『日本書紀』は景行天皇が出身地を、あたかも初めて征服したかのように、「是國也直向於日出方故號其國曰日向也」と日向の地名を命名し、すなわち、熊襲征伐は日向出身の朝廷の説話ではない。
『古事記』の熊襲征伐は、壹與が熊曾建を殺害した記事と、帯中日子天皇は訶志比宮に熊曾を討とうと来て暗殺され、息長帯日売は熊曾に目もくれず新羅を征伐し、新羅は元々朝廷の友好国で倭奴国の説話、朝廷は畿内の政権なので、熊襲征伐は豊浦宮の中臣氏と高千穂宮王室の子孫の香椎宮の日臣の説話と考えられる。
「此地者向韓國直道求笠狹之御前而朝日日直剌國夕日日照國也」と日照国を名に、「大伴氏之遠祖日臣」と大伴氏の祖の日臣の日照が、崇神天皇六〇年「武日照命從天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉」と出雲を配下に市、垂仁天皇二五年「阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彦國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日五大夫」と中臣氏・日臣が臣下となって、垂仁天皇二六年「物部十千根大連曰屡遣使者於出雲國雖検校其國之神寶」と出雲が朝廷の支配地となり、大帯彦の孫の中帯彦が日国(豊国)・仲国の将軍となったようだ。
瓊瓊杵は高千穗に降り、神吾田津姫を妃に火闌降命を生み「吾田君小橋等之本祖也」、『古事記』「此者隼人阿多君之祖」と熊襲吾田君の祖で、神武天皇は日向国の吾田邑の吾平津媛を妃にし、熊襲は建日別と日国の分国なので、諸縣君は高千穗宮の王室の末裔と考えられ、瓊瓊杵は日国を建国した王と言える。
そして、この髪長比賣との婚姻は、390年即位の応神天皇11年なら400年、396年即位の応神天皇11年なら406年の説話で、難波の説話なので、河内丹柴籬宮天皇の406年が相応しい。
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