『日本書紀』は神功皇后前紀と言えるもので、熊襲討伐も巡行に近い。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「帯中日子天皇坐穴門之豊浦宮及筑紫訶志比宮治天下也此天皇娶大江王之女大中津比賣命生御子香坂王忍熊王二柱又娶息長帯比賣命是大后生御子品夜和氣命次大鞆和氣命亦名品陀和氣命二柱此太子之御名所以負大鞆和氣命者初所生
時如鞆宍生御腕故著其御名是以知坐腹中國也此之御世定淡道之屯家也」、【帶中日子天皇は、穴門の豐浦宮、及び筑紫の訶志比宮で天下を治め、大江王の娘の、大中津比賣を妃に生んだ子は香坂王、忍熊王の二柱、又、息長帶比賣大后を妃に生んだ子は品夜和氣、次に大鞆和氣、亦の名が品陀和氣の二柱。太子の名に大鞆和氣とつけたのは、生れた時、鞆のような筋肉の腕だったので其の名が付いた。それで、この力で仲国を統治しようとした。この世に、淡道の屯家を定めた。】と訳した。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「大足彦天皇第二皇子童名小碓命日本武尊第二王子足仲彦王尊諱名也母日兩道入姬皇女活目入彦天皇皇女也天皇容姿端正身長十尺成務天皇無胤故四十八年立為太子年三十一元年歳次壬申春正月庚寅朔庚子太子尊即天皇位尊母皇后為皇太后尊皇太后追贈太皇太后氣長足姬尊立爲皇后開元天皇兒彦坐皇子命兒山々代大筒城真若王兒迦爾米雷王兒息長宿禰女氣長足姬命是.息長地名在近江國坂田郡詔群臣日朕未逮弱寇而父王既崩之乃神靈化白鳥而上天仰望之情一日勿息是以異獲白鳥養之於陵城之地因以視其鳥欲慰顧情則令諸國俾貢白鳥此則天皇戀父王而將養押鳥而弟蒲見別王云雖云白鳥而焼為黒鳥云矣天皇悪其不孝遣兵誅戮矣先娶叔父彦人大兄女大中姬為妃誕生二兒
麛坂皇子忍熊皇子也次娶天熊田造祖大酒主女弟姫為妃生一兒譽屋別皇子也」、【大足彦天皇の第二皇子の日本武、幼名小碓の第二王子で諱を足仲彦、母は両道入姫といい、活目入彦天皇の皇女である。天皇は容姿端正で、身の丈は十尺あった。成務天皇には子が無かったので、天皇の治世四十八年、皇太子となり三十一歳だった。元年壬申の春正月庚寅が朔の庚子、皇太子は即位した。母の皇后を尊んで皇太后とし、皇太后を尊んで大皇太后を追号した。気長足姫を立てて皇后とし皇后は開化天皇の子の彦坐の子の、山代大筒城真若の子の迦爾米雷の子の、気長宿祢の娘の気長足姫、開化天皇五世の孫で近江國坂田郡出身だ。天皇は、群臣に「私がまだ成人しないうちに、父王の日本武はすでに亡くなっていた。魂は白鳥になって天に上った。慕い思うことは一日もやむことがない。それで、白鳥を獲て陵のまわりの池に飼い、その鳥を見ながら父を偲ぶ心を慰めたいと思う」。そこで、諸国に命令して白鳥を献上させた。これは天皇が父王を恋しく思い、飼いならそうとしたのである。それなのに、天皇の弟の蒲見別王は「白鳥といっても、焼いたら黒鳥になるだろう」と言った。天皇は弟王が親不孝であることを憎み、兵を派遣して殺させた。天皇はこれよりまえに、叔父である彦人大兄の娘の大中姫を妃とし、二児を生んだ。麛坂皇子と忍熊皇子だ。また、天熊田造の祖の大酒主の娘の弟媛を妃に誉屋別を生んだ。】と訳した。
この説話は意富多牟和氣と八坂入日賣の子の五百木之入日子と 彦狭嶋の子の御諸別の説話で、意富多牟和氣が128年に淡海に追い出されて、新たに五百木之入日子が師木天皇に、131年大陀牟夜別・淡海天皇が即位、192年に忍熊王が纏向朝廷(?五十琴彦の義父で五十琴姫の夫竹古)の皇太子になったと考えられ、仲哀の妃は『古事記』では迦具漏比賣の子の大江王の娘、『日本書紀』は若建吉備津日子の娘の伊那毘能大郎女の妹伊那毘能若郎女の子の日子人之大兄の娘と異なっている。
詳しい記述が『古事記』なので、恐らく、こちらが元ネタで、雄略朝以降、倭建を小碓、伊那毘能大郎女の子と理解し、叔父の迦具漏比賣の子の大江王を伊那毘能若郎女の子の日子人之大兄と理解したと考えられ、葛城氏の神武東征には吉備王が援助して仲足彦の妃が吉備王なら合う。
口伝えの「叔父おおえ」を、まだ『古事記』を知らない、記録された『古事記』の原本の「大江」など知らず、知っている『日本書紀』の原本の『四方志』や『諸記』の葛城氏大碓や小碓の「叔父大兄」を『日本書紀』が採用したと考えられ、履中天皇四年403年の『四方志』や『諸記』には淡海朝廷の資料が無かったことが解り、403年以降に淡海朝廷が滅亡し、淡海朝廷を受け継ぐ継体天皇が資料を持っていたということが解る。
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