『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「又昔有新羅國王之子名謂天之日矛是人参渡來也所以参渡來者新羅國有一沼名謂阿具奴摩此泥(沼)之邊一賤女晝寐於是日耀如虹指其陰上亦有一賤夫思異其状恒伺其女人之行故是女人自其晝寐時妊身生表(?)玉尓其所伺賤夫乞取其玉恒裹著腰此人營田於山谷之間故耕人等之飲食負一牛而入山谷之中遇逢其(國)主之子天下之日矛尓問其人曰何汝飲食負牛入山谷汝必殺食是牛即捕其人將入獄囚其人荅曰吾非殺牛唯送田人之食耳然猶不赦尓解其腰之玉幣其國主之子故赦其賤夫將來其玉置於床邊即化美麗嬢子仍婚爲嫡妻尓其嬢子常設種々之珍味恒食其夫故其國主之子心奢詈妻其女人言凢吾者非應爲汝妻之女將行吾祖之國即竊乗小舩逃遁渡來留于難波(此者坐難波之比賣碁曽社謂阿加流比賣神者也)於是天之日矛聞其妻遁乃追渡來將到難波之間其渡之神塞以不入故更還泊多遅摩國即留其國而娶多遅摩之俣尾之女名前津見生子多遅摩母呂須玖此之子多遅摩斐泥此之子多遅摩比那良岐此之子多遅麻毛理次多遅摩比多訶次清日子三柱此清日子娶當摩之咩斐生子酢鹿之諸男次妹菅竈止(上)由良度美故上云多遅摩比多訶娶其姪申(由)良度美生子葛城之高額比賣命此者息長帯比賣命之御祖故其天之日矛特(持)渡來物者玉津寶云而珠二貫又振浪比禮切浪比禮振風比禮切風比禮又奥津鏡邊津鏡并八種也此者伊豆志之八前大神也」、【又、昔、新羅の国主の子がいて名は天之日矛といい、渡ってきた。渡来した理由は、新羅国に一つの沼が有って名は阿具沼と言った。この沼の辺に、ある賎しい女が昼寝していた。この日、虹のように耀いて、その股間で反射し、亦、ある賎しい男が、その様子を訝って、ずっとその女の仕草を眺めていた。それで、この女は、晝寢していると妊娠して、赤玉を生んだ。そこでその眺めていた男は、その玉を頼んで受け取り、しっかり包んで腰に著けた。この人は田を山谷の間で営んでいた。それで、耕す人達の飲み物を、一つの牛に負せて山谷の中に入ると、その国主の子の天之日矛に偶然逢った。そこでその人に「何のためにお前は飲み物を牛に負せて山谷に入る。お前はきっとこの牛を殺して食うのだろう。」と問いかけ、それでその人を捕えて、監獄に入れようとすると、その人は「私は牛を殺そうとしていない。唯、耕す人の食物を持って行こうとした。」と答えた。それでも赦さなかった。そこでその腰の玉を解いて、国主の子に贈った。それで、その賎しい男を赦して、その玉を持って来て、床の辺に置くと、美麗な乙女になった。それで見染めて嫡妻とした。そこでその乙女は、常に種々の珍味を並べて、恒に夫に食べさせた。それで、国主の子は、奢ってて妻をののしったので、その女が「私は、お前の妻なるべき女ではない。私の親の国に行きます。」と言って、だまって小船に乗って逃げ去って渡来して、難波に留まった。これは難波の比賣碁曾の社にいる阿加流比賣神という。それで天之日矛は、その妻が逃げたことを聞いて、追って渡来して、難波に着こうとするとき、その渡り神が遮って入れなかった。それで、戻って多遲摩国に停泊した。それでその国に留まって、<・・・略・・・>由良度美を娶って、生まれた子は、葛城の高額比賣。これは息長帶比賣命の親だ。それで、その天之日矛の持って渡来した物は、玉津寶といって、珠二貫。又、浪振る比禮、浪切る比禮、風振る比禮、風切る比禮。又、奧津鏡、邊津鏡、併せて八種だ。これは伊豆志の八前の大神だ。】と訳した。
この説話は矛盾があって、天之日矛は前26年に渡来し、西暦61年に5世の孫の多遲摩毛理が常世国に出向き、200年に6世または8世の孫の神功皇后が子を生み、90年で4世代、後の140年で多くて4世代と矛盾があり、実際は、多遲摩毛理までは親子関係で、それ以降は宮の世代と言う事が解る。
但馬国造の祖は『舊事本紀』「建田背・・・但馬國造等祖」と建田背、『古事記』「息長宿祢王娶河俣稻依毗賣生子大多牟坂王摩國造之祖」と息長宿祢と河俣稻依の子の大多牟坂、『舊事本紀』「但遲麻國造・・・彦坐王五世孫舩穗足尼賜國造」と淡海朝廷の系譜で、日槍の多遲摩は異なる勢力の多遲摩王の系譜で、息長宿祢の妃の母由良度美が多遲摩国王だったことになる。
多遅麻毛理の説話は、非時香菓が高麗橘で萩に自生して出雲・仲国の説話であり、武内宿禰の誕生説話が景行三年に記述されて、大国から豊国への遠征説話の始まりで、「出雲國雖検校其國之神寶」より後の中臣氏が支配していた但馬の説話と考えられ、穂積氏の祖の大矢口は由良都姫を妃にして、父は出石(伊豆志)心で、物部多遅麻の説話と思われ、すなわち、複数の王朝の多遅麻王の説話が重なって『日本書紀』の日槍説話は纏められ、これが『日本書紀』の作成方法である。
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