2021年1月15日金曜日

最終兵器の目 天武天皇13

  『日本書紀』慶長版は

七年春正月戊午朔甲戌射于南門已夘耽羅人向京是春將祠天神地祗而天下悉秡禊之竪齋宮於倉梯河上夏四月丁亥朔欲幸齋宮卜之癸巳食卜仍取平旦時警蹕既動百寮成列乗輿命蓋以未及出行千(十)市皇女平然病發薨於宮中由此鹵簿既停不得幸行遂不祭神祗矣己亥霹靂新宮西廳柱庚子葬十市皇女於赤穗天皇臨之降恩以發哀秋九月忍海造能麻呂獻瑞稻五莖毎莖有枝由是徒罪以下悉赦之三位稚狹王薨之冬十月甲申朔有物如綿零於難波長五六尺廣七八寸則隨風以飄于松林及葦原時人曰甘露也已酉詔曰凢內外文武官毎年史以上属官人等公平而恪懃者議其優劣則定應進階正月上旬以前具記送法官則法官挍定申送大辨官然縁公事以出使之日其非真病及重服輕縁小故而辭者不在進階之例十二月癸丒朔已夘臘子鳥弊天自西南飛東北是月筑紫國大地動之地裂廣二丈長三千餘丈百姓舍屋毎村多仆壞是時百姓一家有岡上當于地動夕以岡崩處遷然家既全而無破壞家人不知岡崩家避伹會明後知以大驚焉是年新羅送使奈末加良井山奈末金紅世到于筑紫曰新羅王遣汲飡金消勿大奈末金世々等貢上當年之調仍遣臣井山送消勿等倶逢暴風於海中以消勿等皆散之不知所如唯井山僅得著岸然消勿等遂不來矣

【七年の春正月の朔が戊午の甲戌の日に、南門でに弓を射る儀式を行った。己卯の日に、耽羅人が、京に向った。この春に、天神地祇を祠ろうとして、天下に例外なく禊のお祓いをした。斎宮を倉梯の河上に建てた。夏四月の丁亥が朔の日に、斎宮に行幸しようと占った。癸巳の日と占いを受けた。それで 夜が明けたころに、神殿のとびらをあける合図で動いた。役人が列を成して、輿に乗って蓋いをさせたが、まだ出発する前に、十市の皇女が、突然に発病して、宮中で薨じた。これで、天皇の行列を止めて行幸できなかった。それで神祇を祭らなかった。己亥の日に、新宮の西役所の柱に落雷した。庚子の日に、十市皇女を赤穗に葬った。天皇は、葬る様子を見て、情けを掛けて泣いて哀悼した。秋九月に、忍海の造の能摩呂が、目出たい稲五茎を献上した。茎毎に枝分かれしていた。これで、労役の刑より以下を、残らず赦免した。三位の稚狹王が薨じた。冬十月の甲申が朔の日に、綿の様な物が難波に降った。長さが五六尺くらいで、広さ七八寸ぐらいだった。それで風で松林と葦原とに飛ばされた。その当時の人は「中国の伝説の天子が仁政を行ったしるしだ」と言った。十月の己酉の日に、「全ての内外の文武官は、年毎に、史より以上は、その所属する官吏達、公平に勤勉な者を、その優劣を相談して、与える階位を決めなさい。正月の上旬より以前に、詳しく記して法官に送りなさい。法官は、調査して決めて、大辨官に申し送りなさい。しかし公事なので、使者を出す日に、仮病や父母の喪でもないのに、簡単で些細な理由で断ったら階位を昇進させてはならない」と詔勅した。十二月の朔が癸丑の己卯の日に、アトリが、空を覆いつくし、西南から東北に飛んでいった。この月に、筑紫の国で大地震が有った。地面が広さ二丈、長さ三千丈余裂けた。百姓の舍屋が、村毎に多く倒壊した。この時に、百姓の一家が、岡の上に有った。地震が夕に発生し、岡が崩れて違う場所に移動した。それなのに家は全く、損壊が無かった。家の人は、岡が崩れて家が移動したことを気付かなかった。ただし夜が明けて、気づいて大変驚いた。この年、新羅の送使の奈末の加良井山と奈末の金紅世が、筑紫に遣ってきて、「新羅の王が、汲飡の金消勿と大奈末の金世世達を派遣して、その年の年貢を貢上した。それで臣下の井山を派遣して、消勿達を送らせた。ともに暴風に海中で遭遇した。それで消勿達は、みな散り散りになって、何処に行ったか解からない。ただし井山だけ、何とか岸に着くことができた」と言った。しかし消勿達は、とうとう来なかった。】とあり、標準陰暦と合致する。

十市の皇女は前述の『万葉集』の調査から、天智天皇が母親の鏡王より高齢なのに、鏡王の娘の額田を娶って、生まれた姫で違和感が有り、この説話は693年持統7年の説話の可能性が有り、『日本書紀』の天武天皇の説話も複数の王朝の大王が記述されている。

額田姫は皇太子の日並と婚姻していて『粟原寺鑪盤銘』「以甲午年始至和銅八年」と694年はまだ天智天皇がまだ皇位にあって、浄御原天皇と呼ばれ、天皇と同等の次代の天武天皇である「大友皇子拜太政大臣」で、大友皇子が20才未満なので、天智天皇の弟の日並が東宮で『万葉集』の三代目額田王の皇太子への歌が東宮日並に対する歌なら合致する。

『興福寺流記』の「文見 孝徳天皇代可勘定寶字記云興福寺此寺之興也創于飛鳥坂蓋宮御宇天豊財重日足姫天皇之代焉至于天皇四年歳次」と興福寺創建が鎌足の内大臣就任の669年より以前の孝徳天皇の時の資料で「大臣枕席・・・嫡室鏡女王」の鏡女王の夫が蝦夷と「皇極天皇8」で示したように、推古天皇の娘が白鳳を建元した鏡女王額田(天皇システムを構成する1人)・その娘が「天皇初娶鏡王女額田姫王生十市皇女」と額田姫王・その娘か妹で父が『粟原寺鑪盤銘』の天武天皇ではなく、浄御原天皇の為に伽檻を造らせた「仲臣朝臣大嶋」が父と思われる。

『万葉集』には「草壁皇子」も「大友皇子」も歌われず、日並皇子のみ歌われ、大友皇子も日並皇子と重ねた可能性が有り、高市皇子の死亡は696年の持統十年「後皇子尊薨」で誰が死んだか不明で、この死亡が日並で、本来は天智天皇の皇子の高市皇子が『新唐書』の「子天武立死子總持立」の總持天皇だから、壬申の乱には草壁皇子が出現しないで、「高市爲太政大臣」と天皇と同等の高市皇子が活躍する。

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