2021年1月11日月曜日

最終兵器の目 天武天皇11

 『日本書紀』慶長版は

秋七月丁夘朔戊辰卿大夫及百姓寮諸人等進爵各有差甲戌耽羅客歸國壬午祭龍田風神廣瀬大忌神是月村國連雄依卒以壬申年之功贈外小紫位有星出于東七八尺至九月竟天八月丙申朔丁酉親王以下小錦以上大夫及皇女姫王內命婦等給食封各有差辛亥詔曰四方爲大解除用物則國別國造輸拔柱馬一匹布一常以外郡司各刀一口鹿皮一張钁一口刀子一口鎌一口矢一具稻一束且毎戸麻一條壬子詔曰死刑沒官三流並降一等徒罪以下已發覺未發覺悉赦之唯既配流不在赦例是日詔諸國以放生是月大三輪真上田子人君卒天皇聞之大哀以壬申年之功贈內小紫位仍謚曰大三輪真上田迎君九月丙寅朔雨不告朔乙亥王卿遣京及畿內授人別兵丁丑筑紫大宰三位屋垣王有罪流于土左戊寅百寮人及諸蕃人等賜祿各有差丙戌神官奏曰爲新嘗卜國郡也齋忌則尾張國山田郡次丹波國訶沙郡並食卜是月坂田公雷卒以壬申年功贈大紫位冬十月乙未朔置酒宴群臣丁酉祭幣帛於相新嘗諸神祇甲辰以大乙上物部連麻呂爲大使大乙中山背直百足爲小使遣新羅十一月乙丒朔以新嘗事不告朔丁夘新羅遣沙飡金清平請政幷遣汲飡金好儒弟監大舍金欽吉等進調其送使奈末被珍那副使奈末好福送清平等於筑紫是月肅愼七人從清平等至之癸未詔近京諸國而放生甲申遣使於四方國說金光明經仁王經丁亥髙麗遣大使後部主博河于副使前部大兄德富朝貢仍新羅遣大奈末金楊原送髙麗使人於筑紫是年將都新城而限內田園者不問公私皆不耕悉荒然遂不都矣」【秋七月の朔が丁卯の戊辰の日に、高官および官僚の諸人に、爵位を与え、各々に差が有った。甲戌の日に、耽羅の客が、帰国した。壬午の日に、龍田の風神と廣瀬の大忌の神を祭った。この月に、村國の連の雄依が死んだ。壬申年の功労で、外小紫の位を贈った。彗星が東に出た。長さが七八尺有った。九月になって、空から消えた。八月の朔が丙申の丁酉の日に、親王以下、小錦以上の高官、及び皇女や姫王や五位以上の位階を持つ女官達に、俸禄を与え、各々差が有った。辛亥の日に、「四方で大規模なお祓いを行え。必要な物は、国毎に国造が出しなさい。お祓いの中心は馬一匹と布一常。それ以外は郡司が出しなさい。各々、刀一口・鹿皮一張・くわ一口・刀子一口・鎌一口・矢一具・稻一束だ。また戸毎に、麻一條出しなさい」と詔勅した。壬子の日に、「死刑や没収三種の流刑は、同じように一段階軽くしなさい。労役の刑より以下は、発覚していても発覚していなくても、残らず許しなさい。ただしすでに流した者は、許すな」と詔勅した。この日に、諸国に捕らえた生き物を逃がしてやるように詔勅した。この月に、大三輪の眞上田の子人の君が死んだ。天皇は、聞いてとても哀しんだ。壬申年の功労で、内の小紫の位を贈った。それで大三輪の眞上の田迎の君の名を謚号した。九月の丙寅が朔の日に、雨が降って朔を告げなかった。乙亥の日に、王と公卿を京および畿内に派遣して、人毎に兵器を調べさせた。丁丑の日に、筑紫の大宰の三位の屋垣の王に、罪が有って土佐へ流した。戊寅の日に、役人及び諸蕃の人達に、俸禄を与えた。各々、差が有った。丙戌の日に、神官が「新嘗の為に国郡を占い物忌みは尾張国の山田の郡、次は丹波国の訶沙の郡、が一緒に受け入れた」と奏上した。この月に、坂田の公の雷が死んだ。壬申年の功労で、大紫の位を贈った。冬十月の乙未が朔の日に、酒を準備して臣下のために宴会を開いた。丁酉の日に、相嘗で諸々の神祇にお供えを祀った。甲辰の日に、大乙上の物部の連の摩呂を大使とし、大乙中の山背の直の百足を小使として、新羅に派遣した。十一月の乙丑が朔の日に、新嘗なので、朔を告げなかった。丁卯の日に、新羅が、沙飡の金清平を派遣して裁可を願った。一緒に汲飡の金好儒と弟監の大舍の金欽吉達を派遣して、年貢を進上した。その送使の奈末の被珍那と副使の奈末の好福と清平達を筑紫へ送った。この月に、肅愼人七人が、清平達と一緒にやって来た。癸未の日に、京に近い諸国に詔勅して、生物を放たせた。甲申の日に、使者を四方の国に派遣して、金光明經と仁王經の説教をさせた。丁亥の日に、高麗が、大使の後部の主簿の阿于と副使の前部の大兄の徳富を派遣して、朝貢した。それで新羅は、大奈末の金楊原を派遣して、高麗の使者を筑紫に送った。この年に、新城に都を造ろうとした。区域内の田園は、公私を問わず、皆が耕さず、残らず荒廃していた。しかしとうとう都を造らなかった。】とあり、八月丙申朔は7月30日で九州の暦で、他は標準陰暦と合致する。

ここでの「告朔」は「こくさく」で『令集解』でいう「こうさく」とは異なり、「こうさく」の始まりは702年大宝二年九月十四日の「制諸司告朔文者主典以上送弁官惣納中務省」で701年大宝元年正月四日の「天皇御大安殿受祥瑞如告朔儀」とどちらか不明で天皇が目出度い知らせを受けて告朔の儀礼のようだと言っていることから、臣下からか神のお告げかよくわからない。

告朔の儀礼は『舊唐書』に詳しく、698年聖曆元年正月「尋制每月一日於明堂行告朔之禮・・・無天子每月告朔之事」と毎月1日に告朔之禮を行う制度を尋ねて、今では天子が実施していないと答え、幹寶注に「周正建子之月告朔日也」と周が子の月の1日に始めたと記述している。

ただし、この朔日は新月の日ではなく、この頃は晦日が新月だったことが日食記事からわかっていて、前日が朔だったことを告げる儀式だったようだ。

すなわち「告朔之禮」は天子が行う儀礼で、この儀礼をおこなわない場合は場合、「不行告朔之禮」若しくは「無告朔之事」と記述するのが正しく、不告朔は「朔」を告げなかったと理解すべきである。

これは、この日に「こくさく」の儀礼すなわち、朔日を神に報告する儀礼ではなく告げなかったことを意味し、朝廷は正確な朔日を使っていたが、この暦を使わない九州に向かって、本日が朔日だと告げてこの暦を使いなさいと宣言していたということだ。

これまでは、朝、朔を確認して布告していたが、暦を導入して朔を推定できるようになり、布告しなくても記録が朔と記述できるようになったことを示し、『舊唐書』にも772年六月庚戌に「有司言日蝕」と計算報告の記録があり、「陰雲不見」と見えなかったので、朔と記述していない。

ここでも、高麗が畿内に朝貢してきたので、新羅が朝貢の場所が機内ではなく筑紫でなければならないので、筑紫に連れて行って、筑紫は加増する余裕が有るのに対して、畿内は遷都すらできなかった。

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