2021年1月8日金曜日

最終兵器の目 天武天皇10

  『日本書紀』慶長版は

五年春正月庚子朔群臣百寮朔拜朝癸夘髙市皇子以下小錦以上大夫等賜衣袴褶腰帶脚帶及机杖唯小錦三階不賜机丙午小錦以上大夫等賜祿各有差甲寅百寮初位以上進薪即日悉集朝庭賜宴乙夘置祿射于西門庭中的則給祿有差是日天皇御嶋宮宴之甲子詔曰凡任國司者除畿內及陸奧長門國以外皆任大山位以下人二月庚午朔拝癸巳耽羅客賜舩一艘是月大伴連國麻呂等至自新羅夏四月戊戌朔辛刄(丑)祭龍田風神廣瀬大忌神倭國添下郡鰐積吉事貢瑞鶏其冠似海石榴華是日倭國飽波郡言雌鶏化雄辛亥勅諸王諸臣被給封戸之税者除以西國相易給以東國又外國人欲進仕者臣連伴造之子及國造子聽之唯雖以下庶人其才能長亦聽之巳未詔美濃國司曰在礪杵郡紀臣河佐麻呂之子遷東國即爲其國之百姓五月戊辰朔庚午宣進調過期限國司等之犯狀云云甲戌下野國司奏所部百姓遇凶年飢之欲賣子而朝不聽矣是月勅禁南淵山細川山並莫蒭薪又畿內山野元所禁之限莫妄焼折六月四位栗隈王得病薨物部雄君連忽發病而卒天皇聞之大驚其壬申年從車駕入東國以有大功降恩贈內大紫位因賜氏上是夏大旱遣使四方捧幣帛祈諸神祗亦請諸僧尼祈于三寶然不雨由是五穀不登百姓飢之

【五年の春正月の庚子が朔の日に、臣下や役人が朝廷に拝礼した。癸卯の日に、高市皇子以下、小錦以上の高官達に、衣物と袴と 平帯と腰帯と脚帯と脇息と杖を与えた。ただし小錦の三階には脇息を与えなかった。丙午の日に、小錦以上の高官達に、俸禄を与え其々差が有った。甲寅の日に、役人の初位以上が、薪を献上した。その日に、残らず朝庭に集って宴会を開いた。乙卯の日に、褒美の禄を並べて西の門の庭で弓を射る儀式を行った。的に命中した人には褒美の祿を与え其々差が有った。この日に、天皇は、嶋宮に居て宴会を開いた。甲子の日に、「全ての国司を任命するのに、畿内や陸奧と長門国を除いて、これ以外は皆、大山位以下の者を任命しなさい」と詔勅した。二月の朔が庚午の癸巳の日に、耽羅の客に船一艘を与えた。この月に、大伴の連の國摩呂達が、新羅から着いた。夏四月の朔が戊戌の辛丑の日に、龍田の風神と廣瀬の大忌神を祭った。倭国の添の下の郡の鰐積の吉事が、目出たい鷄を貢上した。その鶏冠が、つばきの花のようだった。この日に、倭国の飽波の郡が「雌鷄が、雄に化けた」と言った。辛亥の日に、「諸王や諸臣に与えていた封戸の税は、西の国の税を与えず代わりに東の国の税を与えなさい。また畿内の外の国の人で朝廷に出仕しようと思う者は、臣・連・伴造の子、及び国造の子なら許しなさい。ただしそれより低い地位の庶民といっても、才能がある者は許しなさい」と詔勅した。己未の日に、美濃の国司に「砺杵の郡に居る紀の臣の訶佐麻呂の子を東国に遷して、それでその国の百姓にしなさい」と詔勅した。五月の朔が戊辰の庚午の日に、年貢を進上せずに期限が過ぎた国司達が犯した罪状を宣べた云云。甲戌の日に、下野国司が「管轄をする百姓が、凶作のため、飢えて子を売ろうとしている」と奏上した。それで朝廷は許さなかった。この月に、「南淵の山と細川の山の入山を禁じて、一緒に草刈も木こりも許さない。また畿内の山野の、元々から入山を禁じている所は区切って木を焼いたり切ったりしてはならない」と詔勅した。六月に、四位の栗隈王が病に罹って薨じた。物部の雄君の連が、急に発病しいて死んだ。天皇は、聞いてとても驚いた。あの壬申年に、車駕に付き従って東国に入り、大功が有ったので、恩賞を与えて内大紫位を贈った。それで氏上を与えた。この夏は、大変な干ばつだった。使者を四方に派遣して、供物を奉納して、諸々の神紙に祈らせた。また諸々の僧尼に頼んで、三宝に祈願した。しかし雨が降らなかった。この為、五穀は実らなかった。百姓は飢えた。】とあり、二月庚午朔は2月2日で理由は不明だが707年のことと考えられ、それ以外は標準陰暦と合致する。

『舊事本紀』に「孫内大紫位物部雄君連公守屋大連之子此連公飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位奉齋神宮」と記述され、壬申年に関して全く記述せず、守屋の子と記述され、守屋の死亡が630年ころと言うことがここでも証明され、壬申の乱も次項に記述される物部連公麻侶が朝臣姓をもらう以前に壬申の乱が無く、氏上も贈ではなく賜で生きているときに授与されている。

西の税が入ってこなくなったので、東の税収で官僚を賄ったようで、登場人物も西の人物が出現せず、唐の支配がかなり厳しかった様子がうかがえ、外交施設も最終的には筑紫に送っている。

唐の支配が強いとはいえ、倭国勢力の排除による財力取得による、大盤振る舞いの様子が目に浮かぶようで、壬申の乱は『舊唐書』の「日本舊小國併倭國之地」とあるように、唐の力を借りた大革命で、一瞬にして小国の俀国が大国になったことを、如実に表している。

0 件のコメント:

コメントを投稿