2021年1月22日金曜日

最終兵器の目 天武天皇16

  『日本書紀』慶長版は

九年春正月丁丑朔甲申天皇御于向小殿宴王卿於大殿之庭是日忌部首々賜姓曰連則與弟色弗共悅拜癸已親王以下至于小建射南門丙申攝津國言活田村桃李實也二月丙午朔癸亥如鼓音聞于東方辛未有人云得麟角於葛城山角本二枝而末合有完々上有毛々長一寸則異以獻之蓋驎角歟壬申新羅仕丁八人返于本土仍垂恩以賜祿有差三月丙子朔乙酉攝津國貢白巫鳥戊戌幸于菟田吾城夏四月乙朔甲寅祭廣瀬龍田神乙夘橘寺尼房失火以焚十房己已饗新羅使人項那等於筑紫賜祿各有差是月勅凢諸寺者自今以後除爲國大寺二三以外官司莫治唯其有食封者先後限三十年若數年滿三十則除之且以爲飛鳥寺不可關于司洽然元爲大寺而官恒治復嘗有功是以猶入官洽之例五月乙亥朔勅絁緜糸布以施于京內二十四寺各有差是日洽說金光明經于宮中及諸寺丁亥髙麗遣南部大使夘問西部大兄俊德等朝貢仍新羅遣大奈末考那送髙麗使人夘問等於筑紫乙未大錦下秦造綱手卒由壬申年之功贈大錦上位辛丑小錦中星川臣麻呂卒以壬申年功贈大紫位六月甲辰朔戊申新羅客湏那等歸國辛亥灰零丁巳雷電之甚也

【九年の春正月の朔が丁丑の甲申の日に、天皇は、向の小殿にいて、王や公卿のために正殿の庭で宴会を開いた。この日に、忌部の首の首に、姓を与えて連とした。それで弟の色弗と共に喜んで拝礼した。癸巳の日に、親王より以下、小建までが、南門で弓を射る儀式を行った。丙申の日に、攝津の国が「活田の村に桃とすももが実った」と言った。二月の朔が丙午の癸亥の日に、鼓のような音が東方から聞こえた。辛未の日に、ある人が、「鹿の角を葛城の山で得た。その角は、生え際が二枝だが末端が合わさって肉がついていた。肉に毛が生えていた。毛の長さ一寸で、それで奇異に思って献上した」と言った。おそらく麒麟のつのだろう。壬申の日に、新羅の雑役夫八人が本国に帰った。それで恩賞を下して禄を与え差が有った。三月の朔が丙子の乙酉の日に、攝津の国が、白い小鳥(しとど)を貢上した。戊戌の日に、菟田の吾城に行幸した。夏四月の朔が乙巳の甲寅の日に、廣瀬・龍田の神をお祭りした。乙卯の日に、橘寺の尼の僧房で失火して、十の僧房が焼けた。己巳の日に、新羅の使者の項那達を筑紫で饗応した。禄を与え各々差が有った。この月に、「全ての諸寺は、今以後、国の大寺の二・三を除いて、それ以外は役人が統治してはならない。ただし食封がある寺は、あと三十年で食封をやめる。もし年を数へて三十に満たしたら、食封を停止しなさい。また考えるに、飛鳥寺は役人が治めてはならない。しかも元々大寺として、役人がいつも治めた。またかつては功績が有った。それで、官が治める例に入れなさい」と詔勅した。五月の乙亥が朔の日に詔勅して、太絹・綿・糸・布を、京の内の二十四寺に施し、各各差が有った。この日に、はじめて金光明經を宮中及び諸寺で説教させた。丁亥の日に、高麗が、南部の大使の卯問・西部の大兄の俊徳達を派遣して、朝貢した。それで新羅は、大奈末の考那を派遣して、高麗の使者の卯問達を筑紫に送った。乙未の日に、小錦下の秦の造の綱手が死んだ。壬申年の功績で、大錦上の位を贈った。辛丑の日に、小錦中の星川の臣の摩が死んだ。壬申年の功績で、大紫の位を贈った。六月の朔が甲辰の戊申の日に、新羅の客の項那達が、国に帰った。辛亥の日に、灰が降った。丁巳の日に、雷が酷かった。】とあり、二月丙午朔は1月30日、五月乙亥朔は5月2日で4月は小の月で前項と同じ現象で、他は標準陰暦と合致する。

2月の大きな音は九州の噴火のようで、そのため、6月に灰が降ったと記述して、5月は畿内の説話で、九州での畿内の記録なのだろうか。

ここでも、高麗が朝廷のある畿内に朝貢して、宗主国の新羅が都督府のある筑紫に送っていて、朝鮮半島に畿内政権が口を挟まないように、まだ、半島内で勢力を持つ高麗を遠ざけ、新羅は口出ししない代償で畿内政権に年貢を納めていると考えられる。

そして、この使者項那は来日時に火山噴火を記述し、半年近く動かず、筑紫で饗応され、天皇が機内に常駐しているので、実権が大友皇子や鎌足にあることが解り、中臣氏の勢力拡大が着々と進み、実質では、藤原朝廷の始まりと言える。

701年の天武天皇の失脚は筑紫都督府で政務を行ったが、郭務悰が日本を去り、都督府の実権が無くなって、大和の力が強くなったことが背景にあると考えられる。

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