2021年1月4日月曜日

最終兵器の目 天武天皇8

  『日本書紀』慶長版は

三年春正月辛亥朔庚申百濟王昌成薨贈此小紫位二月辛巳朔戊申紀臣阿閇麻呂卒天皇大悲之以勞壬申年之役贈大紫位三月庚戌朔丙辰對馬國司守忍海造大國言銀始出于當國即貢上由是大國授小錦下位凡銀有倭國初出于此時故悉奉諸神祗亦周賜小錦以上大夫等秋八月戊寅朔庚辰遣忍壁皇子於石上神宮以膏油瑩神寶即日勅曰元來諸家貯於神府寶物今皆還其子孫冬十月丁丒朔乙酉大來皇子自泊瀬齋宮向伊勢神宮四年春正月丙午朔大學寮諸學生陰陽寮外藥寮及舍衞女墮羅女百濟王善光新羅仕丁等捧藥及珍異等物進丁未皇子以下百寮諸人拜朝戊申百寮諸人初位以上進薪庚戌始興占星臺壬子賜宴群臣於朝庭壬戌公卿大夫及百寮諸人初位以上射于西門庭亦是日大倭國貢瑞鶏東國貢白鷹近江國貢白鵄戊辰祭幣諸社二月乙亥朔癸未勅大倭河內攝津山背播磨渉(淡)路丹波但馬近江若狹伊勢美濃尾張等國曰選所部百姓之能歌男女及侏儒伎人而貢上丁亥十市皇女阿閇皇女參赴於伊勢神宮已丒詔曰甲子年諸氏被給部曲者自今以後除之又親王諸王及諸臣幷諸寺等所賜山澤嶋浦林野陂池前後並除焉癸己詔曰群臣百寮及天下人民莫作諸惡若有犯者隨事罪之丁酉天皇幸於髙安城是月新羅遣王子忠元大監級飡金比蘇大監奈末金天沖第監大麻朴武麻弟監大舍金洛水等進調其逐使奈末金風那奈末金孝福送王子忠元於筑紫三月乙巳朔丙午土左大神以神刀一口進于天皇戊午饗金風那等於筑紫即自筑紫歸之庚申諸王四位栗隈王爲兵政官長小錦上大伴連御行爲大輔是月髙麗遣大兄冨干大兄多武等朝貢新羅遣級飡朴勤修大奈末金美賀進調夏

【三年の春正月の朔が辛亥の庚申の日に、百済王の昌成が薨じた。小紫の位を贈った。二月の朔が辛巳の戊申の日に、紀の臣の阿閉麻呂が死んだ。天皇は、とても悲しんだ。壬申の年の功労で、大紫の位を贈った。三月の朔が庚戌の丙辰の日に、對馬の国司の守の忍海の造の大國が「銀が私の国に出た。それで貢上します」と言った。このため、大國に小錦下の位を授けた。おおよそ銀が倭国にでたことは、この時にはじめて出た。それで、残らず諸々の神々に奉納した。また全ての小錦より以上の高官達に与えた。秋八月の朔が戊寅の庚辰の日に、忍壁皇子を石上の神宮に派遣して、磨き油で神寶につやをだした。その日に、「元々諸家の、神の倉庫に貯蔵した宝物は、今、其々の子孫に返しなさい」と詔勅した。冬十月の朔が丁丑の乙酉の日に、大來皇女が、泊瀬の齋宮からあ、伊勢神宮に向った。四年の春正月の丙午が朔の日に、官僚育成機関の諸々の学生や陰陽の機関や医学の機関およびインドの女やタイの女や百済王の善光と新羅の雑役達が、藥や珍しい物を手に持って進上した。丁未の日に、皇子より以下、諸役人が、朝廷を拝んだ。戊申の日に、諸役人の、初位以上が、薪を進上した。庚戌の日に、はじめて星を観測する物見やぐらを立てた。壬子の日に、臣下のために朝庭で宴会を開いた。壬戌の日に、官吏や諸役人の、初位以上が、西門の庭で矢を射る儀式を行った。この日に、大倭の国が、目出たい鷄を貢上した。東国は、白い鷹を貢上した。近江国は、白い鵄を貢上した。戊辰の日に、諸社に御幣を祀った。二月の朔が乙亥の癸未の日に、大倭と河内と攝津と山背と播磨と淡路と丹波と但馬と近江と若狭と伊勢と美濃と尾張らの国に「管轄の百姓で上手く歌う男女や背の低い人や芸のある人を選んで貢上しなさい」と詔勅した。丁亥の日に、十市皇女と阿閉皇女が、伊勢神宮に赴任した。己丑の日に、「甲子の年に諸氏に与えた私有民を、これからは、全て止めなさい。また親王と諸王や諸臣と、それに併せて諸寺等に与えた山沢や嶋の浜辺や林野や・土手のある池は、以前のものも今後もみな止めなさい」と詔勅した。癸巳の日に、詔して曰はく、「臣下や役人及び天下の人民は、諸々の悪事をしてはいけない。もし犯したら、内容に従って罰する」と詔勅した。丁酉の日に、天皇は、高安の城に行幸した。この月に、新羅は、王子の忠元や大監の級飡の金比蘇と大監の奈末の金天沖と第監の大麻の朴武摩と第監の大舍の金洛水達を派遣して、年貢を進上した。その送使の奈末の金風那と奈末の金孝福が、王子の忠元を筑紫に送った。三月の朔が乙巳の丙午の日に、土左の大神が、神刀一口を、天皇に進上した。戊午の日に、金風那達を筑紫で饗応した。それで筑紫から帰った。庚申の日に、諸王の四位の栗隈王を軍務の長官にした。小錦上の大伴の連の御行を次官にした。この月に、高麗が、大兄の富干と大兄の多武達を派遣して、朝貢した。新羅は、級飡の朴勤修と大奈末の金美賀を派遣して、年貢を進上した。】とあり、正月辛亥朔は前項に続いて705年2月1日、三月庚戌朔は705年3月1日で、ただし、ともに前月朔が前月の30日なので九州の説話の否定はできず、それ以外は標準陰暦と合致する。

百済王昌成の子の郎虞は『続日本紀』に737年天平九年七月「己丑散位從四位下百濟王郎虞卒」と死亡していて、703年大宝三年八月に「以從五位上百濟王良虞爲伊豫守」と職を与えられ、674年の昌成死亡では郎虞の年齢が高年齢となり異様で、705年の記事なら子が郎虞が20歳程度となって理に適う。

また、銀出土記事はどちらとも言えないが、無文銀銭の出土地が大津で埋納時期はおそらくこれ以降の694年までと考えられるが、和同開珎作成前に使えるお金を埋納するのか疑問で、無文銀銭の年代も再考が必要かもしれない。

標準陰暦と合致する、675年3月の饗応を筑紫で行い、その後都に帰っていて、天武紀では筑紫での饗応がほとんどで、天武期は首都機能が筑紫にあり、鎌足や大友皇子が政務を遂行していたと考えられ、郭務悰も695年頃まで在日し、それまで、多数の唐人に爵位している。

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