2021年1月25日月曜日

最終兵器の目 天武天皇17

   『日本書紀』慶長版は

秋七月甲戌朔飛鳥寺西槻枝自折而落之戊寅天皇幸犬養連大伴家以臨病即降大恩云云是日雩之辛巳祭廣瀬龍田神癸未朱雀有南門庚寅朴井連子麻呂授小錦下位癸巳飛鳥寺弘聽僧終遣大津皇子髙市皇子吊之丙申小錦下三宅連石床卒由壬申年功贈大錦下位戊戌納言兼宮內卿五位舍人王病之臨死則遣髙市皇子而訊之明日卒天皇大驚乃遣髙市皇子川嶋皇子因以臨殯哭之百寮者從而發哀八月發夘朔丁未法官人貢嘉禾是日始之三日雨大水丙辰大風折木破屋九月癸酉朔辛巳幸于朝嬬因以看大山位以下之馬於長柄杜乃俾馬的射之乙未地震已亥桑內王卒於私家冬十月壬寅朔乙已恤京內諸寺貧乏僧尼及百姓而賑給之一毎僧尼各絶四匹緜四屯布六端沙弥及白衣各絁二疋綿二屯布四端十一月壬申朔日蝕之甲戌自戌至子東方明焉乙亥髙麗人十九人返于本土是當後岡本天皇之喪而吊使留之未還者也戊寅詔百官曰若有利國家寛百姓之術者詣闕親申則詞合於理立爲法則辛巳雷於西方癸未皇后體不豫則爲皇后誓願之初興藥師寺仍度一百僧由是得安平是日赦罪丁亥月蝕遣草壁皇子訊惠妙僧之病明日惠妙僧終乃遣三皇子而吊之乙未新羅遣沙飡金若弼大奈末金原升進調則習言者三人從若弼至丁酉天皇病之因以度一百僧俄而愈之辛丑?(月葛:臘)子鳥蔽天自東南飛以度西北

【秋七月の甲戌が朔の日に、飛鳥寺の西のケヤキの枝が、自然に折れて落ちた。戊寅の日に、天皇は、犬養の連の大伴の家に行幸して、見舞った。それで大きな恩賞を下した云云。この日に、雨ごいした。辛巳の日に、廣瀬・龍田の神をお祭りした。癸未の日に、朱い雀が南門にいた。庚寅の日に、朴井の連の子麻呂に、小錦下の位を授けた。癸巳の日に、飛鳥寺の僧の弘聰が死んだ。大津皇子・高市皇子を派遣して弔問させた。丙申の日に、小錦下の三宅の連の石床が死んだ。壬申年の功績で、大錦下の位を贈った。戊戌の日に、納言を兼る宮内卿の五位の舍人王が、病で死にそうだった。それで高市皇子を派遣して訪問させた。次の日、死んだ。天皇は、とても驚いて、それで高市皇子と川島皇子を派遣した。それで遺骸を見て慟哭した。役人も一緒に哀悼した。八月の朔が癸卯の丁未の日に、裁判官の一人が、穂のたくさんついた稲を貢上した。この日から三日間雨が降った。洪水が有った。丙辰の日に、台風が来て木を折って家屋を破した。九月の朔が癸酉の辛巳の日に、朝嬬に行幸した。それで大山位より以下の馬を長柄の杜で見た。それで乗馬して的を射させた。乙未の日に、地震があった。己亥の日に、桑内王が、私邸で死んだ。冬十月の朔が壬寅の乙巳の日に、京内の諸寺の貧しい僧尼及び百姓を憐れんで施しを与えた。僧尼一人毎に、各々太絹四匹・綿四屯・布六端を与えた。修行僧及び庶民には、各々太絹二匹・綿二屯・布四端を与えた。十一月の壬申が朔の日に、日食が有った。甲戌の日に、19時から1時まで、東の方向が明るかった。乙亥の日に、高麗人が十九人、本国に帰った。これは後の岡本天皇の喪のために、弔問した使者がとどまっていて、まだ帰らなかった者だ。戊寅の日に、役人に「もし国家に利が有って百姓をを豊かにする方法が有ったら、朝廷に参内して自ら申し述べなさい。内容が、理に適えば、法律にしよう」と詔勅した。辛巳の日に、西方で雷鳴があった。癸未の日に、皇后が、病気を患った。それで皇后の為に誓願して、はじめて藥師寺を建立した。それで百人を出家させて僧にした。これで、平癒できた。この日に、罪を恩赦した。丁亥の日に、月食が有った。草壁皇子を派遣して、僧の惠妙の病を見舞わせた。翌日、僧の惠妙が死んだ。それで三人の皇子を派遣して弔問させた。乙未の日に、新羅は、沙飡の金若弼・大奈末の金原升を派遣して、年貢を進上した。それで通訳が三人、若弼に従って遣って来た。丁酉の日に、天皇は、病気になった。それで百人を僧した。しばらくして治った。辛丑の日に、アトリが空いっぱいになって、東南から西北に飛んで渡っていった。】とあり、七月甲戌朔は7月2日、九月癸酉朔は9月2日で共に前月晦日は29日、他は前日が30日で標準陰暦と合致し、都督府の暦の可能性が高い。

すると、飛鳥寺は九州に有った可能性があり、夜中に東方が明るかったのは噴火があった可能性が高く、アトリが東南から西北に渡ったのはやはり噴火や地震を感知した可能性が高く、東南に阿蘇山を見る地域に居たことがここでもわかる。

「後岡本天皇之喪」の使者は『薬師寺東塔の擦管』の「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍」と680年に中宮天皇が治癒せず崩じたと記述した、その葬儀に出席していた使者で、661年から居たなどというのは荒唐無稽だ。

これまで書いてきた通り、野中寺の銅造弥勒菩薩半跏思惟像の「本像台座の框」に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年に病気の中宮天皇のために弥勒菩薩像を造り、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」と667年にまだ奉納されていなかった薬師如来像を奉納した小治田天皇・中宮天皇・後岡本天皇が全て合致し、天智天皇の母の天豐財である。

0 件のコメント:

コメントを投稿