『日本書紀』慶長版は
「四月甲戌朔戊寅請僧尼二千四百餘而大設齋焉辛已勅小錦上當摩公廣麻呂小錦下久努臣麻呂二人勿使朝參壬午詔曰諸國貸税自今以後明察百姓先知冨貧簡定三等仍中戸以下應與貸癸未遣小紫美濃王小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野遣小錦中間人蓋大山中曾祢連韓大祭大忌神於廣瀬河曲丁亥小錦下文努臣麻呂坐對捍詔使官位書追庚寅詔諸國曰自今以後制諸漁獵者莫造檻穽及施機槍等之類亦四月朔以後九月三十日以前莫置比溝沙伎理梁且莫食牛馬犬?(犭表:猨)鶏之完以外不在禁例若有犯者罪之辛夘三位麻續王有罪流于因播一子流伊豆嶋一子流血鹿嶋丙申簡諸才藝者給祿各有差是月新羅王子忠元到難波六月癸酉朔乙未大分君惠尺病將死天皇大驚詔曰汝惠尺也背私向公不惜身命以遂雄之心勞于大役恒欲慈愛故爾雖既死子孫厚賞仍騰外小紫位未及數日薨于私家秋七月癸夘朔己酉小錦上大伴連國麻呂爲大使小錦下三宅吉士入石爲副使遣于新羅八月壬申朔耽羅調使王子久麻伎泊筑紫癸已大風飛沙破屋丙申忠元禮畢以歸之自難波發舩巳亥新羅髙麗二國調使饗於筑紫賜祿有差九月壬寅朔戊辰耽羅王姑如到難波冬十月辛未朔癸酉遣使於四方覔一切經庚辰置酒宴群臣丙戌自筑紫貢唐人三十口則遣遠江國而安置庚寅詔曰諸王以下初位以上毎人備兵是日相摸國言髙倉郡女人生三男十一月辛丑朔癸夘有人登宮東岳妭言而自刎死之當是夜直者悉賜爵一級是月大地動」
【夏四月の朔が甲戌の戊寅の日に、僧や尼二千四百人余に頼んで、大法会を催した。辛巳の日に、「小錦上の當摩の公の廣麻呂と小錦下の久努の臣の麻呂の二人は、朝廷に参内してはならない」と詔勅した。壬午の日に、「諸国の貸税は、これから、よく百姓を観察して、まず貧富を調べて、おおよそ三等分に決めなさい。それで中間の戸から以下に貸与しなさい」と詔勅した。癸未の日に、小紫の美濃王と小錦下の佐伯の連の廣足を派遣して、風の神を龍田の立野に祠らせた。小錦中の間人の連の大蓋と大山中の曾禰の連の韓犬を派遣して、大忌の神を廣瀬の河曲に祭らせた。丁亥の日に、小錦下の久努の臣の磨呂が、詔書を伝達した使者に対して拒否したので、官位を残らず取り上げた。庚寅の日に、諸国に「これより以後、諸々の漁や狩猟民に、檻や仕掛けを造るなど、狩猟を制限する。また四月の朔より以後、九月三十日より以前に、魚を捕る仕掛けや簗を設置することを禁じる。また牛や馬や犬や猿や鷄の肉を食べてはならない。それ以外は禁じない。もし犯したら罰する」と詔勅した。辛卯の日に、三位の麻續王が罪を犯した。因播に流した。一人の子を伊豆の嶋に流した。一人の子を血鹿の嶋に流した。丙申の日に、諸々の才能ある者を選んで、俸禄を与え各々差が有った。この月に、新羅の王子の忠元が、難波に着いた。六月の朔が癸酉の乙未の日に、大分の君の惠尺が、病で死の淵に居た。天皇はとても驚いて、「お前惠尺は、私心ではなく公のために骨身を惜しまなかった。雄々しい振る舞いで大乱で功労があった。変わらず深い愛情を持っていた。だから、お前がたとえ死んでも、子孫に手厚く褒賞する」と詔勅した。それで外小紫の位に昇級した。数日もせずに、私邸で薨去した。秋七月の朔が癸卯の己酉の日に、小錦上の大伴の連の國麻呂を大使として、小錦下の三宅の吉士の入石を副使として、新羅に派遣した。八月の壬申が朔の日に、耽羅の年貢を納める使者の王子の久麻伎が、筑紫に停泊した。癸巳の日に、強風が吹いて砂が舞い上がり屋根を壊した。丙申の日に、忠元が、儀礼が終わって帰った。難波から船出した。己亥の日に、新羅と高麗の二国の年貢を納める使者を筑紫で饗応した。俸禄を与え差が有った。九月の朔が壬寅の戊辰の日に、耽羅の王の姑如が、難波に着いた。冬十月の朔が辛未の癸酉の日に、使者を四方に派遣して、一切經を探し求めた。庚辰の日に、酒を準備して臣下達のために宴会を開いた。丙戌の日に、筑紫が唐人三十人を貢上した。それで遠江の国に派遣して置いた。庚寅の日に、「諸王以下、初位以上は、人毎に兵器を備えなさい」と詔勅した。この日に、相模の国が「高倉の郡の女人が、一度に三人の男子を生んだ」と言った。十一月の朔が辛丑の癸卯の日に、人がいて宮の東の岳に登って、不吉な言葉を発して自ら首を斬って死んだ。この夜に当直した者に、残らず爵位を一級昇級した。この月に、大地震があった。】とあり、四月甲戌朔は3月30日、六月癸酉朔は5月30日、八月壬申朔は7月30日で筑紫の暦で他は標準陰暦と合致するが、7・9・10月の前月は小の月のためどちらとも言えない。
前項の「諸王四位栗隈王」や「三位麻續王」と諸王と諸臣を別け三位や四位という数値の位の大宝令、と664年の冠位26階が混在し、『続日本紀』には文武元年八月「賜王親及五位已上食封各有差」と大宝令以前から施行されており、大化三年の「是歳制七色一十三階」は本当の大化3年697年の記事の可能性があり、大化の冠位と大化の冠位を受け付けなかった文武朝廷の混在を表していると思われる。
そして、耽羅は天武2年に「耽羅使人・・・在國王及使者久麻藝等肇賜爵位・・・當其國之佐平位」と爵位を与え、それまでは朝貢だったものが、調を進上して、臣下の待遇になり、『三国史記』新羅文武王10年「封安勝爲高句麗王」と安勝を高句麗王に封じたように新羅も高句麗の宗主国で共に爵位を得ているから新羅が高麗を連れ立って調を貢上しているが、高句麗は日本に泰治手は新羅と対等との考えが有ったのだろう。
天武天皇になって、負けたはずの日本に新羅からの朝貢記事が毎年のようあり、王子まで来ていり、670年に正式に同盟国の俀国が政権について、新羅が正式な国賓として来日したことを示し、俀国の倭国に対する裏切りが大きい物であり、日本との同盟関係があるから、新羅も唐と対立関係になれたと言えそうだ。
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