2025年6月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 まとめ1

『古事記』には年代や暦の日干支が記述されないため、いつの出来事か特定できない。従って、歴史とは言えないが、親子関係を詳細に語っている。しかし、親子関係は『日本書紀』で解るように、一世代が百年、親子で孝昭・孝安など百八十五年も国を治めている。これを、一部の歴史家はまじめに親子だと考えている不思議な生き物たちである。

しかし、常識的に考えれば、孝昭家から孝安家に政権が遷ったと帰結する。93歳で崩じた前天皇を継いだ子の天皇が123歳まで102年間皇位に就いていたなど有り得ない。孝昭天皇六八年に「立日本足彦國押人尊皇太子年廿」と20歳で太子になって、15年後に21歳で即位など、計算が合わない。

この年齢は異なる意味を持ち、間違いだからと無視はできない。いい加減だと言って、無視して即位期間の平均で1代20年程度とするのは、論理的ではない。20年は親子の年齢差に過ぎない。「太子年廿」は最後の孝昭天皇の太子が婿入りした年齢、93歳は葛城掖上宮が続いた年数と考えた。

もしも、太子の居ない68年間に天皇が崩じたら、皇位継承争いで王朝崩壊するだろう。神武天皇は神沼河耳を太子にしたが、神沼河耳には日子八井・神八井の兄も共に當藝志美美を倒そうと立ち上がり、頼りない兄に替わって即位した。立太子は全く無意味だった。私は立太子が九州倭国の王朝交代と考えた。

478年雄略二二年に「白髮皇子爲皇太子」と記述されるが、翌478年昇明二年に興の弟の武が安東大將軍倭國王を叙された。434年允恭二三年に「立木梨輕皇子爲太子」と記述されるが、「賛死立弟彌」と弟への王朝交代があり、「文帝元嘉十五年夏四月己巳以倭國王珍為安東將軍」と438年に叙された。賛は430年に遣使し、「贊死立弟彌、彌死立子濟濟死立子興、興死立弟武」と記述されるように、弟への王朝交代はこの2回である。弟が即位するというのは、皇后が異なる分家が即位することを意味する。

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