羲和は一年366日と決めたが、日本は陰暦、中国は太陽暦を選んだと考えられる。なぜなら、日本は朔を基準にし、中国は晦を基準にしているからである。晦は30日の意味で、本来、中国ではひと月を30日と31日にして、それを、ひと月29日の陰暦に変えたため、朔日イコール晦日になったと考えられる。日本人は晦日を「つごもり」と呼び、朔日(ついたち)と対だ。
漢では、紀元前105年まで二日を朔日と呼んだことがある。「元鼎五年十一月辛巳朔旦」と「太初元年十一月甲子朔旦」の記事はこの日が冬至だったので11月2日をわざわざ朔日にしたと記事にしている。紀元前188年、「惠帝紀八年春正月辛丑朔」と1月1日を朔と初めて記述しているが、前日が12月30日で大の月、すなわち、晦日だったから、次の日は朔日だった。漢で最初に29日の次が朔日だったのは、前84年の「始元三年十一月壬辰朔」から小の月の後の朔日を朔と記述した。『史記』の曆書第四に「王者易姓受命必慎始初改正朔易服色」と朔は自由に変えられた。始皇帝は在位26年に「改年始,朝賀皆自十月朔」と十月を年始とし、武帝は太初元年まで、年初は十月だったのが、二年は春正月から冬十二月と、年始を変えた。
江戸時代の日本の時計の文字盤は季節ごとに位置が変わったが、これは、日本では、時間の長さが季節によって違ったことを示している。時間は満月がどの位置から見えるか、その位置から日の出は3単位あとの寅の時刻とし、それから6(午・うま)単位のあとが日の入りの時刻としたと考えられる。すなわち、春分や秋分なら、6時から18時までである。
大化元年の禮法で「寅時南門之外左右羅列候日初出」「臨到午時聽鍾而罷」とある。仕事は日の出から始めて、「午時(うまどき)」の鐘がなったら帰れとした。日の出は一定でないので、日の出が出勤時間で日の出から12(午)時間後に鐘を鳴らすから帰れとした。当然、午時も一定ではないので、約12時間後、すなわち、日の入り後に帰れと言う意味だ。古代の労働は明るくなったら働いて、日が暮れて暗くなったら帰る習慣だった。
そして、天皇(天子)は夜襲に備え、月や星の運行を観て時刻を知り、夜明けと共に、皇太子に統治を任せた。これが、『隋書』の「天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟」の理由だろう。
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