2025年7月23日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 懿徳天皇

  前510年懿徳元年春二月己酉朔壬子の「皇太子即天皇位」の記事は、『舊事本紀』も記述する前510年の正しい日干支である。安寧天皇の子であり、妹の河俣毘賣の娘の真鳥姫の婿の政大夫だった出雲醜が皇位を奪った。本来は波延の娘婿の師木津日子が皇位継承するのだから、王朝交代である。そのため、前510年懿徳元年八月丙午朔の「葬磯城津彦玉手看天皇於畝傍山南御陰井上陵」の日干支は間違いの日干支である。この日干支は7月晦日の日干支なので、九州の暦を使った、倭王の埋葬日を使用した可能性がある。勿論、前603年や、前546年の他の天皇の埋葬の可能性もある。畿内でも、複数の王朝があった可能性大だから。安寧十一年春正月壬戌朔の「立大日本彦耜友尊爲皇太子也」も前王11年に倭王の交代があったのだろう。

前510年懿徳元年九月丙子朔乙丑の「尊皇后曰皇太后」や前509年懿徳二年春正月甲戌朔戊寅の「遷都於輕地」も正しい日干支で高島の安曇川沿いが首都になったと考えられる。高島は加須屋大海祇や高御産巣日の末裔の地と考えられ、その土地の姫が豐津媛である。

高島の王家は加須屋の分家のため、九州倭国の暦を使用していたようだ。前509年懿徳二年二月癸卯朔の「癸丑立天豐津媛命爲皇后」の日干支は1月晦日の日干支で、ほかに相応しい日は見当たらない。皇后の名前も豊国の津の姫を名乗り、九州の勢力下の王家のようだ。前489年春二月丁未朔戊午の「立觀松彦香殖稻尊爲皇太子」も1月晦日の日干支、九州の暦で、倭王の政権交代の記事のようだ。

天皇出雲醜の末裔は、亀岡の出雲神社に逃れ、和迩君の祖の阿田賀田須は島根県や曲浦へ進出した。また、大物主建飯賀田須は亀岡の出雲神社に残ったようで、子の大田田祢古は河内に住んだ。これらの人々が九州の暦を使ったのだろう。 

前477年懿徳卅四年秋九月甲子朔辛未の「天皇崩」の記事は前477年の日干支ではなく、前446年、孝昭二九年の日干支である。神武天皇即位前紀の「天皇陟彼菟田高倉山之巓」もこの時の記事である。孝昭天皇の大臣出石心が懿徳朝の出雲醜と兄弟である理由は、在位期間が重なっている、同世代の人物だったことを示している。元年に出石心が大臣、二十九年に世襲足姫が皇后に、三十一年に奧津余曾が大臣になり、それまで、出雲大臣と出石心大臣が並立していたのだろう。

年候補

丙午9月朔 -629 -603 -546 -479 

甲子9月朔 -570 -539 -446 -420 -353 -322 -296 -260

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