前392年孝安元年春正月乙酉朔辛卯の「皇太子即天皇位」と元年秋八月辛巳朔の「尊皇后曰皇太后」は正しい日干支だが、『舊事本紀』には日干支を記述しない。孝昭天皇は出石心と奧津余曾だったが、孝安天皇は奧津余曾の子の彦國押人、大臣を賜姓する朝廷は併合された。
前367年孝安廿六年春二月己丑朔壬寅の「立姪押媛爲皇后」から天戸目が天皇になり、葛󠄀木避姫が押媛、繩伊呂泥の婿が天戸目である。余曾多本毘賣の子の大倭帶日子國押人は忍鹿比賣・蝿伊呂杼の婿だろう。すでに、実質の天皇は瀛津世襲に遷っているので首都の秋津嶋も掖上に行幸した時に名付けた、池心宮と同じ場所である。大臣を賜姓した朝廷は出石心から瀛津世襲へ。そして、磯城の朝廷に吸収された。
前355年孝安卅八年秋八月丙子朔己丑の「葬觀松彦香殖稻天皇于掖上博多山上陵」は奇異である。葬儀は通常、王朝末年か元年に行っているし、『古事記』もその王朝内で埋葬している。葬儀を行うことで、その王朝が終わったことを天下に示し、皇后を新しい都に皇太后として迎え、遷都を宣言して皇位に就く。すなわち、孝安朝は孝昭天皇から皇位を簒奪し、38年間併存したことを示している。それが、「三年八月・・・六見命三見命並爲足尼」の記事で二柱の天皇が存在した。出雲大臣の子となっているが、世代が異なるので瀛津世襲大臣と出石心大臣の子なのだろう。
前317年孝安七十六年春正月己巳朔癸酉の「立大日本根子彦太瓊尊爲皇太子」は九州倭国の王朝交代だろう。前291年孝安百二年春正月戊戌朔丙午の「天皇崩」は正しい日干支である。大倭帯日子の子が孝靈天皇、天足彦國押人は天戸目で、子の建斗禾は木国造、娘が坂戸由良都姫(倭國香媛)と絚の妹、絚の姉の婿が大水口と絚の妹の婿の大矢口だろう。大水口と倭國香媛の子に『日本書紀』に記述されない日子刺肩別・欝色雄、大矢口と絚の妹の子に彦狹嶋(大綜杵)が生まれたと考えられる。欝色雄は大綜杵の1代前なので、大水口を欝色雄に想定し、その娘婿が彦五十狹芹彦・大綜杵なのだろうか。東鯷人は20国に分かれ、主導権を競っていたのだから、数人の天皇がいてもおかしくはない。
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