孝安天皇、丸迩臣の祖の(天足)彦國押人の子の建斗禾は日臣の末裔の木國造智名曽の妹の中名草姫を妃に十市縣主になった。木國造智名曽は日臣が前446年孝昭三十年に天道根の末裔の名草戸畔を破り、名草戸畔と姻戚関係になって、木国造になったと考えられる。天道根は紀河瀨直の祖でもあり、河瀬は彦根に有り、木国に彦根の河瀬も含まれたようだ。それが、神武天皇即位前紀戊午年六月乙未朔丁巳、「軍至名草邑則誅名草戸畔者」の記事だ。
天足彦の子の建宇那比も木国造の娘と考えられる節名草姫を妃に十市縣主になったと考えられた。建斗禾の姉妹が細媛で、前290年孝霊元年元年春正月壬辰朔癸卯に「太子即天皇位」と孝靈天皇が即位し、前289年孝霊二年春二月丙辰朔丙寅に細媛が皇后になった。日干支は正しく、孝霊卅六年春正月己亥朔の「立彦國牽尊爲皇太子」も倭王朝の交代である。
神武二年二月甲辰朔乙巳に弟磯城が磯城彦になった。論功自体は、659年でよいが、沼河耳の妃が磯城縣主の祖、磯城縣はまだ無かった。磯城は孝安天皇まで、磯城にも、もう一人の天皇が住んでいた。そして、孝霊天皇の時に、兄の磯城彦は十市縣主になった。すなわち、同じ干支の前292年か168年が相応しい。すなわち兄磯城は建宇那比が継ぎ、弟磯城黒速は宇那比姫の婿の比古布都押之信がついだのだろう。崇神朝は磯城が首都なので、比古布都押之信の子が天皇になった。磯城彦の娘婿は伊香色雄である。
年候補
乙未6月朔 -570 -513 -446 -420 -389 -322 -296
甲辰2月朔 -659 -602 -535 -509 -478 -411 -354 -292 -168
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