崇神天皇は師木の水垣宮を首都にする天皇で、『日本書紀』には前95年崇神「三年秋九月遷都於磯城是謂瑞籬宮」と記述される。しかし、日干支を記述しない、すなわち、日干支の記録が無かったのだろう。今まで、記録を持っていた朝廷が滅び、記録を持っていなかった場所に朝廷が遷った。
すなわち、この遷都は記録を持っていた春日宮王朝が滅亡した記録と考えられる。そして、大縣主の大毘古の子が前97年、崇神元年春正月壬午朔甲午に「皇太子即天皇位」と即位した。天皇比古由牟須美、大臣伊香色雄日子坐、最高実力者は木国造の建宇那比である。
崇神元年二月辛亥朔丙寅の「立御間城姫爲皇后」の記事は九州・吉備の暦で1月30日晦が辛亥である。実際の皇后は木國造荒河刀辨の娘の遠津年魚目目微比賣で息長水依比賣と考えた。子は丹波比古多多須道主、旦波大縣主由碁理の娘の竹野比賣の子なのだから、丹波道主は相応しい。
前94年崇神四年冬十月庚申朔壬午の「惟我皇祖諸天皇等光臨宸極者豈爲一身乎」記事は十一月で、ひと月のズレがある。吉備の暦の十月庚申晦(30日目で実際は11月1日)すなわち、十一月庚申朔なのだろうか。
前91年崇神七年春二月丁丑朔辛卯の「昔我皇祖大啓鴻基其後聖業逾高王風轉盛」にも即位の宣言らしき記事が存在する。この時、大物主が現れて、大田田根子に祀らせるように言った。すなわち、吉備や出雲神社の勢力が河内や奈良に進出して、勢力を築き始めたと考えられる。
0 件のコメント:
コメントを投稿