2025年8月11日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 開化天皇1

  孝元天皇は磯城彦葉江の分家の大目の子の兄磯城と葛木彦の朝廷で、弟磯城黒速が絚某姉の夫なのだろう。その子が欝色雄大臣、『日本書記』が記述しないもう一つの朝廷のよう。『日本書紀』は開化天皇まで、大臣や大連・政大夫を記述しなかった。すなわち、大臣を賜姓する『舊事本紀』の朝廷と、賜姓しない『古事記』の朝廷、もう一つ、大臣を賜姓しないし、『古事記』とはやや異なる『日本書紀』の朝廷が存在した。

開化天皇は前158年孝元五七年冬十一月辛未朔壬午、11月12日に「太子即天皇位」と即位した。しかし、『舊事本紀』は「元年癸未春正二月皇太子尊即天皇位」と前157年で即位が一月か二月か一二日か意味不明である。『日本書紀』には、前157年開化元年春正月庚午朔癸酉の「尊皇后曰皇太后」、開化元年冬十月丙申朔戊申の「遷都于春日之地」とある。

しかし、『舊事本紀』「二年春正月尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈」「冬十月都遷春日地謂率川宮」と一年のズレがある。すなわち、『日本書紀』の記録は『舊事本紀』の記録者と異なる勢力が記録したことを意味する。書いた勢力が違うのだから当然である。

同じ内容に1年のズレを持つ、2つ以上の暦が存在したことを示している。『漢書』は「東鯷人,分為二十餘國」と20国余が前漢朝に中心国が現れたと記述している。前漢は、前200年頃から紀元後7年まで、孝元天皇から垂仁天皇までの間である。そして、垂仁天皇時に十千根大連を記述する。大連を持たない勢力が権力を弱めたことを示し、崇神朝は両勢力が統合した東鯷人の国だった。

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