前214年孝元元年春正月辛未朔甲申の「太子即天皇位尊皇后曰皇太后」、前211年孝元四年春三月甲申朔甲午の「遷都於輕地是謂境原宮」、前209年孝元六年秋九月戊戌朔癸卯の「葬大日本根子彦太瓊天皇于片丘馬坂陵」は九州の日干支で、孝靈朝の最高実力者の建斗禾の記事と考えられた。この頃の人物に天道根の孫の比古麻夜真止が存在し、大屋首の祖とされ、大屋は大倭の意味で、国名が付加されない比古だが、大屋神社近辺の最高実力者なので、大屋比古の大屋を略した野洲の王である。孝元朝の首都は輕境原宮なので、孝安天皇の娘婿が出雲大臣の血を引く大水口で天戸目を継承し、欝色謎の娘婿が孝元天皇である。
前209年孝元六年に前朝廷が滅亡したことを宣言して、大水口の子達が政権を奪取したようだ。前208年孝元七年春二月丙寅朔丁卯の「立欝色謎命爲皇后」によって、欝色雄の政権が樹立された。すなわち、「八年春正月鬱色雄命爲大臣亦大綜杵命為大祢」とあるように、鬱色雄が大臣と政務の最高実力者になった。大綜杵は大祢、大倭根子より格下なのだろう。暦を管理する宮の大祢ならば、『舊事本紀』の孝安朝から開化朝まで、日干支を記述していないのと矛盾する。日干支を管理していれば、「八年春正月鬱色雄命爲大臣亦大綜杵命為大祢」の記事に正しい日干支が記述されなければならない。
孝元廿二年春正月己巳朔壬午の「立稚日本根子彦太日日尊爲皇太子」は正しい日干支だが、立太子は九州の王家の継承である。倭人が百余国を纏めたのが前漢である。なので、卑弥呼に繋がる九州の王家の倭王朝は孝元天皇の時代から始まったと考えられる。前158年孝元五十七年秋九月壬申朔癸酉の「大日本根子彦牽天皇崩」も正しい日干支で、欝色謎が皇后の安曇川沿いの、輕境原宮朝廷は終わった。
『日本書記』を書いた政権は大臣を書いていない。『日本書紀』の孝元天皇は物部氏の王家ではない王家、葛木の大倭根子、皇后は欝色謎ではなく、欝色雄の娘の伊香色謎と考えられる。欝色謎の夫は別人、兄磯城の十市縣主が有力、比古麻夜真止も考えられる。
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